はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

分科会の答え:仕事と人類学

分科会では、「ビジネスと人類学」、「出版と人類学」、「教育と人類学」、などについて15分ほどの発表が続き、最後に出版社の方のコメントと、人類学者のコメントで締めくくられた。

このコメントはなかなかにクリティカルなもので、会場が湧いていたように思うが、今回はこのことにインスパイアされて、私自身の体験から「仕事と人類学」について考えてみようと思う。

 

「事務が恐ろしいほど向いていない」とパートナーに言われる私だが、やっていたのは事務であった。書類を丁寧に折って入れたり、コピーをしたり、徹底的に半ロボットみたいなことをしていた。私は、何か途中で話しかけられたり、違うことが発生すると、自分がそれまで何をしていたのだがかわからなくなるということがあったりもした。

 

私の好きなことは議事録作成である。

 

「それはあなたが部署単位での”文化”になじめなかったのであって、たとえば企画職とかだと向いていると思うんだけどな」とパートナーは言った。企画職というものがどんなものかはよく知らないけれど、あの、「お仕事淡々ロボット ※なお、淡々と同じことを繰り返すということがスムーズにできなければ人権無し」という仕事の仕方からは離れていきたいものだ、と思った。

 

閑話休題

 

ビジネスと人類学は相性が悪い、と言われる。それはやっていることが結局コンサルティングになってしまい、コンサルティングは課題解決をゴールとするから、とかも言われているし、その会社の一員になるということは、その会社のマインドから離れることがなかなか難しくなってしまうから、とか、会社で評価されるということはその会社である程度何か思惑に沿った行動をとることが良しとされているから、批判的に参与観察したり、概念を脱構築しづらいのではないか、とかが考察される。

 

私は個人的には、お仕事をする上で人類学をやる時に難しいのは、結局お仕事というのは人の集まりで、それぞれに人の心理が働いて、「誰それは能力が高い」とか「誰それは何もできない」とか、そういうことの比較につながるからだと思う。能力を競い合っている中に、「それぞれの考えていることがありますね」と言ってまとめる方向に向かわせなくては一つのお仕事、というのは達成されないが、それにしても、そんな風に一つの思惑に向かわせるというというあり方そのものが政治性を帯びていて、それに沿わない他者を排する姿勢にある。その力加減全体を見るのであれば、それは文化人類学になるのだろうけれど、力加減全体を見る立場はきっと孤独になってしまうだろう。そうでなければまた別の権力作用が生じるだけで、権力の奪取ゲームは人類学の目的とすることとは全く逆になるのではないか。

 

友人は、「自分が何者かわからなくなるから日記を書いている。でもその日記によって自分が固定されてしまうと思ったから日記を書くのをやめた時期があった」と言っていた。

 

会社にいても、どこにいても、私は私以外の何かになることはできず、他人からどのように認知されているかもわからない。そういう意味でずっとずっと異邦人のような感覚がしている。異邦人でありながら、さらに同化と異化ができるということが、よい人類学者たりえるのかもしれない。

 

つまりこれまでのお仕事と私の相性が悪かったのは、私自身が、私以上の何かに適応したり、あるいは逆に、私以下の何かになったりすることもなく、ずっとどこまでも「私」という人間を維持し続けた結果でもあるのではないか、と思った。

 

それは友人が「固定されてしまう自分から離れる」のように「異化」「同化」を交互にしているのとは違って、私は「異化」も「同化」もしないから、人類学者に憧れることがあるのだろう、と思った。

 

客観的ということはちょっと意地悪にも物事をみることができることなのだと思っていた。大学に入りたての頃、何か斜め上から物事をみることができるような人を心底、羨ましがったものである。

でも私はそれがあまりできないタイプの人間でよかったと思った。今も、そういうところが自分の人類学をやりたいと思う人間の素質であるとも思っている。

 

まあ、ときどき隘路に入ってしまうこともあるけれども。