はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

再読:『文化人類学の思考法』

私が文化人類学をやりたいなぁと思ったきっかけは、山口昌男の『天皇制の文化人類学』を読んだことで、しかもこの話はどちらかというと比較文学とかに近い話だと思うから、では「文化人類学って何」と思った時にさらっと読める基本的な本がほしかった。

というわけで、前に読んだのがいつだったか忘れたけど、『文化人類学の思考法』を再読した。(学部3、4年生の頃に宗教人類学に興味があったから、もしかしたらその頃に「呪術」について読みたくてこの本を読んだのかもしれない。)

 

再読して面白かったのは、「国家とグローバリゼーション」(中川理)の章だったかな、と思う。なんでそれが面白かったと感じたかというと、やはり私が一つのシステムの中で生きる人たちのそれぞれの生き方と関わり方に興味があるからだろうとは思った。大きいかどうかわからないけれど、この日本という国における資本主義と政治は確かに傾いているし、それでも依然として変わらないままだし、それよりもっと状況が悪くなっているのではないか、という考え方もある。

 

なんでそんなことを考えるのか、と思った時に、よくもわるくも自分がいた中学校が一つの経験だったのかな、と思った。

私のいた中学は県で下から二番目に偏差値の低い学校で、生徒側は教育というものに関心がなく、勉強することについてどこか諦めている節があった(ように映った)。教育というものは選ばれた人だけが受ければよいもので、自分たちには関係ないもの――というような。でも先生方はよく努力していたと思う。教育内容についても、理科や数学ではグループで意見を交換しあったり、研修会を開いて学校内での授業を検討していたり、見方によっては非常に訓練された――しかしよりよい道に導こうとしている熱意は伝わる――学校だった。ブラジルやフィリピン出身の子もいるし、部活にとにかく懸命な子もいたし、知的障害を持つ子も同じクラスにいた。明らかに経済格差と教育格差がリンクしていることが中学生にもわかる状況があった。だから中学二年生になってもアルファベットを教えるということが起きていた。私は先生に質問をした。「中学二年生になっての英語の授業ってこんなものなんですか?」

私は先生に呼ばれて、「お前は恵まれているということを忘れるな」と言われ、なんでか知らないけどすごく泣いた。あとで担任の数学教師が、「英語の先生に怒られたんだって?」と顔をほころばせて話を聞きに来た。

 

何人かの知り合いは、教員を目指したそうだけど、私は教職をとらなかった。人間に対峙するというのもこわかったし、エンパワメントをする、という言葉には憧れがあったけれど、教育というものがことこの国においては誰かをエンパワメントするというよりも、幾千もの大きな抑圧を目にして、その大きな抑圧に関わることが怖かったからである。

 

地方の公立中学校の体験を話したのは、私が一つの社会というモデルケースを見つめ直したいと思うきっかけになったのが、国民国家という制度の中で生まれた政治や経済が地方の子どもに諦念を感じさせているということだったから、と言える。そしてその諦念を抱かせているこの状況は、家族制度やコミュニティを犠牲にしているから、割を食うのが子どもになっていた、というのが、2010年くらいだったんだとわかってきた。

 

私が大学院を目指すのはごく個人的な理由で、一つの社会モデルというものを自分で実際に観察し、言葉にし、考察を加えたいということ、在野で本を読んでいる分には適合しきれない差し迫った状況が自分の中にあるからだ。

 

一つの社会モデルの考察をするのに適した学問はやはり、人類学なのではないかと思えたし、読むことと実践することと考えること、聞くこと、話すこと、書くことを全て網羅していく欲張りな学問だということが自分に合っているような気がした。

 

私は世界につながるために、この学問を選ぶのだと思わせてくれた入門書だった。