はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『〈沈黙〉の自伝的民族誌 サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』

「自分もことを記述する」という試み、文化人類学のみならず、歴史学ではイヴァン・ジャブロンカという人が『私にはいなかった祖父母の歴史』を書いているし、文学でも、アニー・エルノ-という小説家が近年ノーベル文学賞を受賞している。

 

この『〈沈黙〉の自伝的民族誌』では、著者がアイヌの祖母を持つ人で、「アイヌ/和人」という枠組みについて、「自分の存在が透明になったよう」と感じてきた。その透明さの感覚を原稿に起こし、学術的な理論も紹介しながら、「自分はサバルタンである」として自分のファミリー・ヒストリーについて書く、というのは画期的なことである。

 

文化人類学では「書く/書かれる」という優位性が問題になるからである。

 

書く主体/書かれる主体について、卒論でとても悩んだ。私がフィールドワークの対象者としたのは「イスラーム教徒の女性」だったけれど、私が「書く」というのは人の声の代筆のような気もしてしまい、本来であったら対象者とされる人たちがもっと自身の声を上げるべきなんだ、そうでないとずっとマイノリティのままになってしまう、と思っていた。

 

だから、「表象される」アイヌにあてはまろうとするのも違うと感じるし、だからといって、両親や祖父母また、その親の家族の歴史から、自分が「和人」として生きられるようにしてきた、「アイヌ」と「和人」との間で表象されることがない、という状況に苦しんできた、ということは「確実にあることなのに、なかったことにされている」ことで、その状況をずっと受け入れていいのか、という眼差しから立ち上がったものでもあったと思う。

 

余談だけど、『ゴールデンカムイ』が今映画化されてヒットしている。「伝統的な」アイヌの表象が受け入れられているのはいいことでもあるけれど、アイヌといえば「コタンに住んでいて衣装を身につけていて狩りが上手い人たち」といったイメージが固定されることはちょっと恐いなと思った。

 

アイヌは日本という歴史をつくるうえで「同化」を強いられてきた人たちだったし、「同化を強いられている」という記憶は共有されている。そこには「同化を強いた」人もいる。同化しなければ得られなかったもの(教育や職業、住むところ)もある。

 

著者が尊敬しているという太田好信さんの『トランスポジションの思想――文化人類学の再想像』について読みたいと思ったし、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』についてもそろそろ読みたいと思った。