はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

踊り子の夢

こんな夢をみた。

 

私は若くてスタイルの良い、美しい女だった。そして踊り子だった。

私に恋をした男がいた。

たぶん、三十代後半から四十代くらいの人物だったように思う。

 

私たちは惹かれ合った。

 

しかし、男が本気になるかならないかのところで私は、身を躱していた。

 

そのうち男は私のことを忘れようとしていたのか、自身も別の踊り子たちのパトロンとなって、プロデュースをするようになった。

 

もう一度その男に会おうと思った私は、赤くて宝石のついた、ひらひらした衣装を身に纏って、通りで踊った。

身体全体を使って、官能性を表現しようと思った。

それはおおむね成功したように思う。

 

男が踊り子たちとその通りに来て、私を見た。

踊り子たちは不快に思ったようだが、男はやはり私に見惚れていた。

 

場面は変わって、

私と男は車の中で話していた。

見ると、男の服が変わっている。上等な警服のようなものになっている。

私は毛皮のコートを着ている。

 

手帳を見せながら、「俺も警視総監になったのだ。もう会えない」というようなことを言っている。

 

私は、少し泣きながら、

「よかった。ここから空港までは一人で行けるから」

と言って、車を出る。

 

さよならを言ったのか言っていないのかわからないが、女が出た後で車は動き出す。

 

警視総監になったというのは噓だった。

 

 

 

 

夢を見た後、目が覚めて、「恋ができるということと、結婚ができるということは、必ずしもイコールではない」と思った。

踊り子であった夢の女はなぜずっと身を躱し続けていたのだろうと思った時に、それは男の方から一歩踏み込んでほしかったということなのか、単に気まぐれなのかよくわからなかった。

でも、この夢の中で一連にあった、「ものすごく相手のことが好きで、相手も自分のことを好きだと思っている」というその時の気持ちは、夢から覚めた今も思い出せるものがあった。

 

こういう、ドラマのある夢をたまに見る。

すぎていく日々に鈍感……ではいけない

今日は夫が飲み会で、したがって夕飯をつくらなくてよい日だった。

 

不思議なもので、自分のための夕飯となると、特に買い物をする気も起きず、ありあわせのキムチとチーズとキャベツと粉を使ってお好み焼きをつくり、カップスープを飲めまそれだけで胃は満足した。

 

しかし、妙に気分が沈むのでベッドで丸まったあと、入浴することにする。浴槽の中の湯につかる。こんな風に気分が沈むときは、身体をあたためた方がいい――ということは、数年の一人暮らしの生活の中で得た知恵である。

 

ほんの数年前まで、一人で起きて、一人で眠る生活をしていた。夜に眠れない日も多くあった。それまで付き合いのあった友人には、「眠るのがこわいんだろう」と言われた。たぶん私はその時、夜もずっと緊張していたのだと思う。最近は眠れないで悩むことはない。夜中に起きることはまだある。

 

風呂から上がり、ジャスミンティーを飲んで、何がそんなにこわいのかと思った。

 

毎朝起きる度、自分が今どこにいるのかを一瞬忘れて、「北海道にいるんだ」と徐々に記憶を取り戻す。もうすぐこちらに住んで二年が経とうとしているのに、まだそんなことを思い出しながら起きている。

 

夫がまだ恋人であった頃に、教えてくれたアーティストの曲を流す。しばしの間、じっと聴く。

 

今日は、SNSに友人が転職したという書き込みを見た。勤めているところを知らなかったが、見知ったビルの写真があって、「なんだ、意外と近くで仕事をしていたんだな」という気持ちになった。先に先にと進んでいくその友人の――別に大学の同期でもない人ではあるけれど――投稿を見て、私の方は一体どこに進めばいいんだ、という気がしないでもなかった。

これに至っては、嫉妬ではなく、おそらく羨望である。

 

SNSを見るのをやめて、私はしばらく『しいたけ占い カラー心理学版』などを見るなどして、何気なく自分があてはまるチェック項目を数えた。それには「あなたのカラーは茶色」とあって、それには、「長い時間をかけて成果を出していく人です」とある。かけた分の時間で得られたものはなんなんだ、と思わない。なお、「茶色」の項目にあることには「日記を書き続けている」とあって、確かに書いているこのブログは日記の側面がないでもなくて、そういう意味ではちょっとでも当たっているような気がして、ふむふむ、と先を読む。

そこには、「煮詰まった時には人と話してみましょう」とあり、「話せる人がいないときはやっぱり一人でぼそぼそとブログを書いているしかないのか……」と思った。

 

とはいえ、このブログはちょっとした私の心の支えにもなっている。

 

自分が北海道に来た意味をたまに考える。なんというか、「人生って不思議ね」と思わないわけにはいかなくて、でもいつかはここも出ていかなくちゃいけない。『怪獣の花唄』のワンフレーズを聴いたり、見たりするたびに、ほんとうは、「今、ここ」に集中していればいいことなのに、過去とか未来とか、そんなことばっかり気にしてしまう。

 

一つずつ物事は片付けていくしかないのだ。

 

そういえば、『怪獣の花唄』をちゃんと私が聴いたのは、夫に連れて行ってもらった発表会にてだった。去年の11月のことだった。

コーヒー

コーヒーを飲みながら人と人とが話している、それだけの映画を観た。

 

それぞれの会話やドラマに、「ひょっとしてこういう事情があるのかな?」などと思いを馳せながら観ていたのだが、そういえばコーヒーを片手に向き合って話している時というのは、それなりにちょっと思い出す場面というのがあると思う。

 

最近は、人から紹介された人に会うのにやはりコーヒーを飲んだ。その人にはその人のドラマがあって、今私の前に座っているんだと思うと、何か「ため」にならなくてはいけないことを喋らないと、という気持ちになった。

 

そうしてその人物の前に喋る言葉は、自分自身に向けて喋る言葉のようにも感じられた。

人に会うということは、自分に向き合うことでもあるなと思う。

 

そういえば、昔、(2020年とか2021年とか?)に新宿のミロードでやはり人とコーヒーを飲んでいた。

「どうしても結婚がしたいと思っているの」とうじうじ話す私に、その人は「今すぐにではないかもしれないけれど、君は結婚できると思うよ」と言ってくれた。会うことはなくなったが、その人は今元気でいるだろうか。

 

コーヒーの映画を見たとSNSで呟いたら、友人が「私はその映画を大学生の時に十回以上見たんだ」とリプライをくれた。

彼女とお茶をした時、そういえばその日は彼女の誕生日で、私は何もプレゼントができなかったのだけれど、二人で歩いている時に、右の角にあるお店で見かけた観葉植物を彼女が買っていっていたことを思い出す。

 

あの時私たちは何歳だったんだっけ?

読んだ:『入門 組織開発:活き活きと働ける職場をつくる』

ndlsearch.ndl.go.jp

 

夫に、「自己分析をしなさい!」と言われて、「自己分析の前に会社のことを分析しよう」と思って読んだ本。

 

命令と監督が必要という考え方(X理論)ではなく、人は自ら実現したい目標のために自己統制をするのだから、その人の力を引き出すようにしよう、とする考え方(Y理論)を推奨した本。

 

読んだ後、「苦手なことだけを業務にしたら苦行になるのはあたりまえだろ」と(前に勤めていた会社に対して)思った。世の社会人は、どのような感じで業務を進めているのだろう。

かろやか

ところで、私はマッチングアプリというものが好きであった。

 

マッチングアプリの何がいいかというと、単純に、同世代の知らない人と出会えるところである。

 

恋人探しという観点はあったのだが、それよりも、同世代の異性が、今までどんな人生を歩んできていて、どんな決定をしてきて、今なぜその人としているのかということにものすごく興味があったのだ。

 

マッチした人の中でやりとりをしていると、そういえばなぜか「よつばと!」のよつばちゃんスタンプを使っている人が多かった。(夫もよつばちゃんのスタンプを使う)。

 

大体どういうところに生まれて、どういう学校に行って、どういうことを趣味としていて、どういうことを職業としており……ということを対面で聞くと、その人のその人らしさということがなんとなくわかり、面白かった。官僚だという人は付和雷同な感じがあり、ITコンサルという人は水面下で物を考えているような感じがあり、ゲーム会社勤務という人はエンタメ好きという感じがあった。(そして多くがよつばちゃんスタンプを使っていた)

 

現・夫が「就職活動とか研究室訪問ってマッチングアプリと仕組み同じだからね」と言って、「ええ~ そうなの! そんなに楽しい感じなんだ!!」と言うと、夫は驚いていた。そして夫は、「マッチングアプリも就職活動も市場というものが存在する」と言い、それは確かに私も神妙に頷いてしまった。

 

マッチングアプリをしていた頃、そういえば私は自分の好きなこともいっぱいするようにしていた。九州に高校の先輩が引っ越したと聞けば、飛行機に乗って一人九州に行き、東にイザベル・ユペールが来ると聞けば舞台のチケットを買い、という具合である。そんな風に自分の好きなこともしていたので、マッチングアプリは東京近辺の知らない場所発掘アイテムとして使用しており、それで知ったお気に入りのお店やはじめて足を運んだ企業博物館なども存在する。

 

今思うと、なんというか軽やかにマッチングアプリを使っておりますね。

 

そう考えると就職活動も、「就職だ! ずーん」って感じではなく、「働きたいから働きたいと思えるところを探そう~~~」という感じで取り組めばいいのだろうなと思いました。えーてか就職説明会ってお見合いみたいな感じだったのか~、そうしたら説明会はぽんぽん行っちゃえばよかったな~と思った。

 

ちなみに、もし、就職説明会で行けるとしたら行きたい企業はガラスの会社である。ガラスっていいですよねぇ。

読んだ:『スタイルズ荘の怪事件』

移動中にアガサ・クリスティーの『スタイルズ荘の怪事件』を読み終えた。大体9月頃になるとミステリーを読みたくなり、本棚にあった未読のミステリーで移動中に読めそうなものはこちらだったのだ。

 

アガサ・クリスティーは『アクロイド殺し』、『そして誰もいなくなった』、『春にして君を離れ』を読んでいて、まだまだクリスティー初心者といったところなのだけれど、今回、「飛行機に乗っている間に読むのにちょうどいい」ことがわかったので、次回は何を読もうか楽しみにしているところ。

 

『スタイルズ荘の怪事件』はエルキュール・ポワロ登場の第一作目にして、はじめて出版されたものとは聞いていたので、どんな話なのだろうと思っていたのだが、流れは単純と言えば単純なものである。

「スタイルズ荘」に人が集まる → 館の主人でお金持ちのおばあさんが殺される →それが毒殺だとわかる → 現場検証

という風に物語が進む。

他のミステリであまり見ないところで好きだなと思ったのは、陪審員による審査があるところだ。これによって、内部の証言に限らないことが明らかにされるのがいいなと思った。*1

 

ミステリーは私はトリックがどう、というよりも「犯人は誰なのだろう」と思いながら読むタイプなのだが、「スタイルズ荘」は、現場検証をした時の違和感が一つずつ解きほぐされ、作中で言及されていた、一見何のことを言っているのかわからないことがあとで明らかになるので、安心して「これは~~に用いられてたのか」と得心することができる。

 

謎解きにしても面白いのだけれど、それよりも、私は語り手のヘイスティングスの思っていることを読むのが好きで、彼も結構嘘をつくあたり(安心してほしいのだけれど、この嘘をつくのは謎解きとは関係ないところなのだ)、アガサ・クリスティーという人は、人の心というものをよく観察しているんだなあと思う。

 

そういえば、エルキュール・ポワロというとどうしてもイメージが固まってしまうのだけど、第一作のポワロは子どもみたいなところがあり、それまでの私の「ポワロ」像は映画などをみてつくってしまった部分だったなあと思った。「スタイルズ荘」のポワロはあんまりケネス・ブラナーっぽくはない。

 

『スタイルズ荘の怪事件』は読み終えてほんのりとあたたかな気持ちになり、秋に読むのにミステリーはいいよねえと思いながら帰宅することができた。

*1:ただしこれは、夫が最近、ゲーム『逆転裁判』をやっているのをみたからである。というか「スタイルズ荘」全編を通して『逆転裁判』のシナリオをつくっている人は『スタイルズ荘の怪事件』ももちろん読んでいるんだろうなという感じがした。

2025年9月20日

妹に子どもが生まれたので、はるばる故郷に会いに来ている。

甥は母方の祖父似のような気がしている。

 

甥を寝かしつけたり、妹に言われるがままミルクを飲ませてみようとしたり、一緒にいる間歌ってみたりと、私は順調に叔母活をしていた。

まだ耳は聞こえないということだけれど、甥は歌うと安心したような顔つきになる。今日はThe Beatlesの”Black Bird”とKim Carnsの”Betty Davis Eyes"をたどたどしく歌ってきかせた。

 

彼の父親は明日、顔を見せるということで、まだ彼の母親と父親のそろっているところは見れていないのだが、実家にベビーベッドが届いたり、哺乳瓶コーナーができたりと「赤ちゃんがやってきた」感が出ていた。

 

こうして母は甥の祖母に、父は甥の祖父になった。

 

甥宛てに手紙を書き、その手紙を妹に渡すと、妹は「いいことが書いてあるね~。これはとっておこうね」と甥に言ってきかせた。

 

大きくなってから読んでくれるといいなと思っている。

 

夜泣きのことを思い、また家の部屋数のことを考えて私はホテルに泊まり、昔、好きだった吹奏楽の曲をリピートしながらこのブログを書いている。

 

甥はどのようなことを趣味に選ぶ子になるのだろうか。楽器を吹いたりするようになるだろうか。それともミニカーやプラレールに興味を持つ子になるだろうか。それよりも体を動かすことの好きな子になるだろうか。

 

妹は、ついこの間までふにゃふにゃと笑っていた妹なのに、もうすっかりお母さんである。

 

実家はすっかり赤ちゃんが来たことで華やいでおり、そういえば私は『人間の条件』を取り行こうと思っていたことをすっかり忘れていた。

 

母はCANVAでつくったというデザインのデータを私に渡して、「このまま入稿したらだめだよ」と言われるなどしていた。しかし赤ちゃんの面倒も見るし、仕事をもするし、これまで以上にはりきっているように見えた。本人は、「9月はほとんど休みがない」とぼやいていたけれど。

 

父も、何かと「赤ちゃんを見に行かなくちゃ」と言っていた。

 

妹とはM-1 グランプリの2023年のネタを一緒に見たりして、二人で笑ったり、最近撮った写真を二人で見せ合ったりしていた。

テレビの番組でお笑いを見ていて、「なんかしっくりこないなぁ」と私が話すと、「お姉ちゃん、令和ロマンが面白すぎるのよ」と言っていた。妹は私のことを「お姉ちゃん」と言う。

 

母親になった妹には、妙な貫禄があり、しかし若い母親である風もあった。私は、母親は一人でなんでもできるものというイメージがあったけれど、家族に支えられて徐々にお母さんになっていくという側面もあるのかなあと思った。赤ちゃんを育てるには助け合うということが大事なのだな。

 

子ども用のおむつや、哺乳瓶や、ミルクや、ケトル、お風呂などがあり、赤ちゃん用の洋服なども用意されて、新しい子が来てくれたんだ、とあらためて思う。日本の家族観だと、甥は家族と言うのに微妙な空気があるような気がしていたけれど、甥は私にとっても家族なのだった。

 

とにかくみんな喜んでいて、にこにこしていて、家族が増えるのはいいものだと思った。