はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

ポンポさんとフィールドワーク

日曜日に『映画大好きポンポさん』を流しながら、今日も質的調査についての本を隙間時間に読んでいて、映画づくりとフィールドワークって似ているなぁ……などと思った。

 

フィールドワークは、

①何に興味・関心があるのか。〈テーマ設定〉

 ⇒関心領域の先行研究集め

 ⇒わかったこと・わからないことの整理

 ⇒問題設定(「問い」をたてる)

②調査地決定

 ⇒どこ(場所):人口、歴史

 ⇒どれくらい(期間)

 ⇒誰に

 ⇒何を

 ⇒どのようにして(参与観察、インタビュー)

ということを決めてプロジェクト(調査)に入り、プロジェクト(調査)を整理しながら、分析にかかる。

 

『映画大好きポンポさん』で置き換えれば、①については脚本が決められており、②についても撮影場所や役者が決まっている、という状態で、ジーン君がプロジェクト(撮影)に入っているということ。

 

調査をしてからは、分析と説明(理論による下支え、NOT理論に沿うだけ)が加わり、映画のシーンをどのように編集すればうまくできるかよろしく、どのように調査したことを盛り込むか・論理として説明できるようになるか、ということをやっていく。

 

『映画大好きポンポさん』では、クリエイターについて書かれていて、ジーン君の映画への熱意などが描かれている。プロデューサーに頭を下げてもう一度シーンを撮影したり、クラウドファンディングをしたり、一つのWORKをつくりあげるのは大変だな、と思いながら観ていた。

 

最近、自分の卒業論文について思い返していて、どういう日程で何をやっていたか、とかどういうことをやりたいと思っていたか、何に悩んでいたか、などを思い出していたのだが、単純に行き詰っていたなぁと思っていた。

 

調査方法を明確に打ち出していくということがどういうことかわかっていなかったり、

どういう方法で理論的背景を用意するかみたいなことがわかっていなかったり、自分で言いたいことがなんなのかがわからなくなっていて、それでも調査をし続けていれば何か方向がわかるのではないかと思っていた。

 

でも調査をし続ければ何かがわかるというのは一面ではなくて、映画で言われていたみたいに、その作品(テーマ)のどこに自分を見出しているのか、誰に見せたいか、を考えるのも一つの手だったなぁと思った。

どういうものを面白いと感じるか、どういうことについてもっと深く追求していったら何がわかりそうか、を追いかけていってみることが大事だったなぁと思ったのである。

 

休日、パートナーと話していて、ぐさっときた言葉がいくつかあって、「簡単にトラウマとかコンプレックスとかいうラベルを貼ってわかったような気になるのをやめたほうがいい。もっとそこで感じ取れることがたくさんあるかもしれないのに」「結論ありきで何かをすることによって、限定されてしまう、ということが起きてしまうのではないか」と言われた。「何かをわかったような気になってしまうのは違うのではないか」ということ。

 

言われるたびに、心がひりひりとして、しかしその痛みはなんなのか、わからないでいる。

しかし、このひりひりとした感じは、「わかったことにしなくちゃいけない」(何か結論をくださなくてはいけない)のと、「私自身でしまっておきたい感情」の間にあるような気もした。

 

ひとしきり話した後、パートナーは「あなたは人間のことがわかりたいから文化人類学をやっているのか」と言った。それ、ずっとそう言い続けているんですけど……というのはともかく、とはいえ私もジーン君みたいに悩んでいたこととか、夢中になっていたことがあるだろう、その根源は、やっぱり、「誰にも理解されない」ことと「自分は何かを理解したい」というものの間で揺れているから、映画をいっぱい観るみたいに、本をいっぱい読んで、書き留めているのではないかという気になった。

 

こういうことが、「思春期や青年期にありがちだ」ということはわかっているけれど、こういう部分から生まれてくるもの、というのにもやっぱり意味があるはずで、その「誰にも理解されない」という部分にもう少し目を向けてみるのも一つの手だと、やはり思い直すのだった。