はちみつのdiary

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途中まで読んだ:『他者の苦しみへの責任 ソーシャル・サファリングを知る』

クラインマン(夫妻)、ヴィーナ・ダス、ポール・ファーマー、マーガレット・ロックの論考まで読んだ。

 

他者の苦しみへの責任 : ソーシャル・サファリングを知る | NDLサーチ | 国立国会図書館

 

これを読む前に「精神科に行ってみた」系のコミックエッセイを読んでいた。そこで話されていた、精神科医が患者に「家系図を書いてもらって話を聞く」という手法を読んで、河合隼雄も、「社会とか家族とか、その個人を超える背景を持っている人が抱えている問題がある」(要約)みたいな話をしていたなぁ、と思いだした。しかし一方で、「自分の抱える辛さや不調のようなものは、だいたい話を聞くとあなたは虐待を受けていましたね、とか、共依存ですね、とかいう話でいいのだろうか?」という風にも思った。そこで、自分以外の人(他者)の抱える苦しみについて、どれだけのことを考えることができるのだろう? と思ったことが本書を読もうと思ったきっかけである。

 

読みながら、『墓のない女』(アシア・ジェバール)も読まなくてはいけないなぁ、という気分になったのだが、人間の苦しみについて、どこまでが自分と地続きでどこからが地続きではないか、という感覚が人によって違うなぁと思った。

 

ケビン・カーターの写真みたいに、見てしまえば「この状況はよくない。危険を感じる。」と共感をするものもあるけれど、一方でケビン・カーターその人への共感については共感をする人もいれば、批判をした人もいたように、その写真に狙いがあることをよしとする残酷さも人間の中に見出されることについてそれを「どこの」苦しみとするかについて考えたら、一個人の「苦しみ」というのは、その個人にしかわからないという点もありえるような気がした。だけど、誰かを援助したいと思ったり、誰かに共感してもらいたいと思ったり、誰かに対しての自分の振る舞いがあっていたかどうかわからない、ということもまた、人間の中にはあると思って、「社会構造の中での人間のありよう」を説きたい気持ちもわからなくもないけれど、個々の人間同士のストーリーというものもまたあるのではないかと思った。ハイチでの二人の物語を「ハイチでは一般的」とすることは構造的暴力に加担しているのではないかと思ってしまうのである。

 

脳死の話については、私が『カッコーの巣の上で』という映画を3回くらい観たことも影響しているのかもしれないけど、生物学的な死というよりも、近代化以前にあった尊厳を持った死というあり方が、尊厳と死に二分されてしまったように、現代社会において、われわれは身体と精神の分離に比重を置いているのではないかということも考えられた。画一的な尺度によって何かを測ることが可能なのか、ということがどうしても思われてしまうのである。

 

こういった本のほかに、今は「ダーウィン博物学によってもたらされた種の進化という考え方」すなわち「環境が自分をつくるのか(=自分が環境に適応していくのか)、自分が先で環境があとからできるのか」みたいな話についても、どこまで個に寄せていけばいいのかという話に通ずるような気がして、このテーマ(画一的な尺度)についてはもっと考えていきたいと思った。

 

でもたまに思うのだけれど、私たちの天上や天下というところではなく、また自分が唯一無二ということもなく、もっと別のところで、私たちを観測している視点があるのではないかということを想起せずにはいられない。

ある人はそういう存在を「神」というのかもしれないけれど、私はそういう厳しいようなあたたかいような存在が自分の中にも存在しているのではないかということも思ってしまう。

 

そういう存在が、私という目を通してあらゆるものを見ているのではないかという気がして、一方で私という身体にある以外の人も、そういう存在とはとても仲良しなのではないかということも、忘れずにいたいと思う。

 

「他者の」苦しみというのは、あくまでも自分の見聞きできる範囲のものだから、見聞きしようとする行動がなければまた生じもしないという気もする。つまるところ、ソーシャル・サファリングなるものも、どこの視点でどのように見聞きするかという話なのかな、と思い、そういうことを3Dマップとかに表すことができたらいいのにな、と思ったが、結局それはマップ化(=尺度化)の話になるので、やっぱり私は、私自身のことを表現できる手段があった方がいいなと思った。それが生きるということなのかもしれない。