木村敏の『臨床哲学講義』を読んだ。最近話した人がやはり木村敏がお好きだったので、木村敏を読んだ……という次第。
昨日、パートナーと話していた時に、「精神疾患とは何か」みたいな話になったので、実際に精神病理学をされていた木村敏の話は「なるほどー」と思いながら読んだ。今まで河合隼雄は読んだことがあったけれど、河合隼雄は臨床心理学からのアプローチをしてユングの話をしていて……という感じだったので、実際に患者を医師として診ている人からの話はそれはそれで参考になった。
「症状の奥には自分の課題と戦っている」というような趣旨の文があって、「めっちゃわかる」と思いながら読んでいた。他に、ビオスとゾーエーの話は小樽で体験したこと(ブログでは小樽に行ったとしか書いていないが、その体験は生命について考えさせらる旅であったのである)があったので、納得しながら読んだ。
端的にまとめると、ビオスというのは個としての生命、個体としての生命で、ゾーエーというのは生命論とでも言うべき、すべての生命の土壌となっている輪廻のような生命という風に理解した。
たとえば「私」という人間は、桜を見たり海をみたりして「きれいだな」と感じる。この「私」というものは、いつかは死ぬ運命にある存在である。これがビオス。しかし、桜や海をみて「きれいだな」と思ったその人の記憶というか、そのそれぞれの記憶というものは生命を紡いでいく。もっとかみ砕くと、桜になったとか空の高いところにいった、とかいうその桜なり空なり海なりの広大なものの一部になっていき、そこからまた生命が生まれてくる、具体的であり有機体であり、しかし形というものをもたないその大きな生命をゾーエーという……というような理解をした。
精神疾患、と一般的に言われる症状――統合失調症の幻覚、妄想などについてはやはり、自己の確立という点で自分という存在を絶えず築き上げていって、他者にすきをみせない、常に他者と戦い続け見果てぬ自己実現というものをしようと思いながら自己というものが他者との関係性において築けなくなることなんだなあ、と思った。
外を歩きながら思ったけれど、他者がそれぞれの思惑を持って歩いているとか、木が木の形をしているとか、机が机としてあり続ける、とか、そういう「外」との世界との信頼が損なわれてしまうのが統合失調症なのかな? と思った。
また、統合失調症の人が一般に「育てやすかった」とか、「裏表がなく嘘がつけない」とか、「自主性がない」とか、そういう特徴も面白いな~と思った。世界を真正面に受け取っているから、それがどことなく世界と調和しなくなっていく理由になるのだろうという感じがした。
そんなことを考えていると、なんだかまわりがふわふわし、自分が心もとない存在のように思えてきた。
臨床心理学のアプローチから精神について考えていくのと、精神病理学のアプローチから精神に考えていくのは、私にとっては前者から考えていくのがよい気がする。精神病理学の方から考える人は、きっとゆるぎない自己があって具体的な世界というものの肌触りから離れていないような人なのではないかという気がした。