タイトル通り、男=文化/女=自然 の考え方に迫った論考集を読みました。
男が文化で、女は自然か? : 性差の文化人類学 | NDLサーチ | 国立国会図書館
読んでみて、男も女もそれぞれに「自然」な部分はあるだろう~という気がしました。
マコーマクが指摘していましたが、文化人類学者は「女性性の原因を生物学に見出し、男性性の原因を社会的領域に見出している」(p.202)というのは、確かに~と思いました。そうなると、やはり文化というものを構築してきたのが男性主導に見えていたようにみえて、それらは男性のコードが文化に帰服していたからだろうな~と思ってしまいますね。
ここであらためて、男性=文化、女性=自然という見方について考えてみます。
個人的には、女性=自然とすることで、女性への憧れを表現しているように思いました。自然というものは、何かに頼ってコントロールをできるだけしたいものの、うまく組み伏すことができない力であって、そういうものをcaltivateしていくことができると思わせることで、コントロールできないものをコントロールできるようにしていく、というような思惑があると思います。
読んでいて不思議だったのは、逆に女性=文化で、男性=自然という見方をしている人が一人もいなかったことでした。私なぞは、家で織物や料理をしている人にはそれぞれの文化というものが見いだされ、狩猟などをしている男性の方が自然社会で戦っているように見えてしまいます。また、こういう文化の話で「女性は生理があって、それは穢れと見なされるから宗教行事に参加できない」などという話を聞きますが、男性の射精についてはそれを自然なものやこととみなすことはなく、「文化」にしてしまうことは、男性の生物学的な特徴について、どの男性からも言い出せないということは反って自然的なものであるということを男性自身がよくよくわかっているのではないか、という気がしてしまいました。
そういうことで思い出してみたのですが、そういえば色と文化というのは密接に結びついている、ということをカラー写真で教えてくれる本があって、白というのがどの地域でも男性を表す色であった、みたいな話を高校生の時図書館で読んだのですが、その時白は精液を表すからだ、みたいなことが書いてあって高校生ながら驚いた覚えがあります。自然を文化に還元しようとするのは、やはり男性の試みであったのでは……?
ということで、私は最後のストラザーンの論考とマコーマクの論考を除いては、基本的にこの論考集は男性を社会的に、女性を生物学的に論じようという前提が(それがレヴィ=ストロースを下敷きにしているにせよ)あるような気さえしてしまって、そういうことで納得できる仕組みづくりをしてきたんです、と言っているような気がしてしまいました。男女を脱構築せよ、という言い方はちょっと雑な考え方に思えるのですが、それにしても文化/自然という二項対立で捉えようとするところに、そもそもの無理があるような気もしましたし、仮に二項対立で捉えたとしても、もっと事例に依拠して考察してもよいのではないかと思ってしまいました。事例に依拠すること、できなかったんですかね。
とはいえ、生物学的な議論に還元するのを避けられないような部分もあるような気もしていて、でもそれを男性文化の規範(コード)で考えないようにするにはどうしたらいいかなぁ、とも思っています。
あとは若干マコーマク論考で触れられていましたが、血縁集団に縛られないための女性の反抗、みたいなことについて、宮本常一も言っていたような気がするので、それについてももっと知りたいなぁと思っています。
実は、女性=文化という図式に置き換えられないのは、男性=自然であったからではないか? という見方をしてみました!