はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『芋たこ長電話』

古本屋に売っていた田辺聖子のエッセイを読むことにした。

田辺聖子のエッセイは前に『愛を謳う』を読んで、関西のゆったりした感じと、ゆったりしつつ、山椒みたいに後から効いてくる文をお書きの方だな……という印象があり、また登場する「カモカのおっちゃん」が大好きなので読もうと思った。

 

「説得する人は説得されるのがきらい」とか、「男女の隔離教育とはよかった」とか、今の流行をTwitterなどで読んでいると「むむ……」とか「どうなんだろうな~」とか思ってしまうことがのびやかに書かれていてよい。

 

紹介したいのは「突っぱり」というエッセイである。

 

どうやったら人と生活できますかねぇ、などと話した後で、カモカのおっちゃん(のちの田辺聖子さんの旦那さん)は「突っぱりをなくすこと」と言う。

「突っぱりとは何」と田辺さんが訊くと、

”まず、かくあるべし、というふうに、自分をはめこもうと思うのが突っぱり”*1

と言う。

 

私の感じるもやもやは「突っぱり」だったのか~と思った。

では具体的に何が「突っぱり」なのかはぜひエッセイを読んで確かめていただきたいと思う。

 

もう一つ、カモカのおっちゃんは鹿児島生まれの九州男児で、作中「女はあたまがわるい」と繰り返し言うところがある。田辺聖子さんは女流作家なので、そーいう態度はどうなのよ、と度々言ってみせることがある。

 

別におっちゃんの「女はあたまがわるい」について、肯定も否定もしないけど、うーむそうかもしれない……という部分はある。

 

それは言い換えればホモソのコンテクストについていけない、そもそもコンテクストから疎外されているから、と言えばまあそうなのかもしれないけれど、男の人にとって面白がっている場面(誰かの名誉を棄損していない場合に限る)について、女の人がさっと現実的なことを言ったりして、男の人がちょっとかわいそう……という部分は結構見られる光景なのではないかと思う。

女性はこういう現実的なことを言う時、大抵意に介さないか、得意げであったりする場合もあるのだけれど、そういう時の男の人のしょんぼりとした感じがちょっとかわいそう……と思わなくもない。

 

女、とか、男、とかそういう規範はもうすでに古く、そんなものに囚われないのが現代であり……と思う人もいるだろうけれど、このエッセイを読む限り、1970年代も同じような議論がなされていたようである。

 

でも、会社の広告とか、キャッチコピーとか、そういうものに寄ってたかって「中年おじのホモソな意図が透けてみえる」なんて言っちゃったら、カモカのおっちゃんは内心どう思われるのか気になりました。

 

まあ、「女はあたまがわるい」という言説に反論しようと思ったら、「これだから鹿児島出身の中年おじは」と言うのではなく、たとえば、「そういえば『くどき上手』を手に入れましたけど、もう酔っ払っていらっしゃるようなのでこれは明日にしましょうか」などと言うのも一つの手かもしれない。

 

「わかった! 明日飲もう!」などと言う人はいないと信じたい。

 

*1:田辺聖子、『芋たこ長電話』、文芸春秋1984年、p.180