はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

観た:『哀れなるものたち』

シェリーの『フランケンシュタイン』みたいな話なのかなー、それよりももっとフェミニズムに寄せた話なのかなーと思って観に行ったら、どちらかというと「男性の支配欲」についての話だと思った。

妊婦の死体から胎児を取り出してその脳を移植してできたのがベラ・バクスターという人間(エマ・ストーン)なのだが、彼女は世界をみてみたい、と言って駆け落ち同然の旅に出る。(しかしベラは別に駆け落ちとは思っていない。)セックスの喜びを知り、旅行をして、船で本を読むベラに、旅を提案したダンカンはベラに怒り、懇願し、溺れていく。しかしベラはダンカンの気分など意に介さない。

この映画を観て、ベラを「自由だ」という人もいると思うけれど、私は「なんて冷たい女なんだ……」と思ってしまった。けれども自分にもベラのような部分は持ち合わせているので、一概にベラを切り捨てることはできない。

一方で自分にはできないな、と思うのはセックスワークを人生経験として捉える点である。嫌な男は嫌、だし好きな男性についてはとことん好きになる、というのが女の本性だと思っているので、セックスすらも通過点にしてしまうベラがフェミニズム的な存在かと言われるとそうでもないのではないか……と思ってしまうのである。

「支配欲についての映画だと思う」と書いたのは、まあそれなりに思うところがあって、この映画ではいろんな男性がベラへの支配を試みる。まずはベクター博士で、父性的な役割をこなしているようだけれど、博士の「父」を自認し、「女」を「教育する」という観点はやはり一つの支配欲であるように見えた。わかりやすいピグマリオンコンプレックス、というか。マッキャンドルスは本当に面白みのない男で、ベラについて好意を寄せていたとしても、彼女に対して「こんなことは嫌だ」とかも言えない従順そうで誠実そうなふりをした退屈な男である。ベラは彼を「婚約者」と言うけれど、そこに愛はなさそうだし、どこに惹かれている、とかもないし、存在は薄いし、私がベラだったらこういう男の人は好きになれないなと思う。

ダンカンはわかりやすくて愛すべき男性の弱さのようなものを詰め込んだキャラクターだった。だんだんベラに対して懇願していくようになったり、結婚をほのめかしたり、ベラが読んでいる本を投げ捨てたりとかして、いかにもプライドが高く、女が成長していく過程というものを一見喜んでいるようで自分の小心さや狭量さを抑えきれない人物として描かれているのがよかった。ああいう人は世の中にはいっぱいいるけれどなかなか映画などには表象されないのではないかと思う。ディズニー映画で言えば『美女と野獣』のガストンがあてはまると思うけれど。

終盤で出てくる将軍に関しては、領土の話を出したり使用人を銃で脅したりする、誰もが嫌悪する人物であった。それなのに彼の最後に関しては「やりすぎでは」と思ってしまうあたり、私はああいう人でも何か人間的な心を持ち合わせているはず、と期待してしまう部分があるのかもしれない。

ベラは医学生になって自身を向上させ、父性を引き継ぐ人間となりました、ちゃんちゃん、という終わり方はなんかあんまり好きではなかった。

フェニミズムの映画に見えないのもそれが理由かもしれない。

 

私自身は結構ベラに自己投影しながら映画を観てしまってはいる。というのも、私にも男の嫉妬心といったものを軽くみている点があるのである。

男性の嫉妬心というものは、存在しているはずだけど、まるでないようにされている。紳士方は自分がどれくらい愛されているかに興味をお持ちで、興味をお持ちなのに、そんなことと自分は関係ありません、というふりをしている。関係ありません、というふりを続けたいから、女性にどれくらい愛されているかとか、自分をどれくらい守れているかということにご執心なのだ。これは時に全く愛してくれない女性を愛することで慰められる。自分が恋焦がれている女性がいる、でもその人は自分を愛してはくれない、でも自分はその人を愛し続ける、それが愛だと思うから……というように。この場合は大抵女性の方は好意を持っていない。でもご本人はそれを愛とお考えのようで、自身のナルシズムが満足するようであり、満足しないと言ってる場合ではその状況を楽しんでいるようにも見える。

 

だからベラを取り囲む男性は真心を持って接してくれないベラに対して、支配欲という形でしか関わることができない。彼らのナルシズムをベラは全く救ってくれないからである。

 

ベラが主人公のように描かれているから、女性の自由とか女性主体の、なんて思われてしまうのかもしれないけれど、私は男性の心に訴えかけず、やきもきもせず、切ない気持ちを一人押し殺している、みたいなしおらしい感じがベラには全然なくて、だから余計、ベラは鏡の役割をしていて、真の主人公はベラにまつわる男たちだ、と思った。

 

支配を試みる人たち、というのは哀れである。そこに能動的な愛はなく、エンパワメントする愛もなく、ただ愛してくれ、という叫びだけが暴力に換えられているからである。そんな人たちに囲まれているベラは少しも幸せそうではない。物語の最後に、女たちに囲まれ読書をするベラが描かれているけれども、セックスを切り離した冷感症の女にしか見えない。

 

もちろんこのベラという人間の批判には、私の、私に対する自己批判も込められているのである。

 

自分の中にある冷感症な部分が見えて切ない気持ちになる映画だった。