はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『未踏の野を過ぎて』

久しぶりに大学というところで、オリエンテーションを受けて自己紹介などをして、それぞれが自分の関心について語るのを眺めていたら、「私はどんな人間としていたいか」ということがもやもやと出てきて、本屋でひとまず渡辺京二のエッセイを買って読んだ。

 

先ほど読み終わったのであるが、「佐藤先生という人」という人はめちゃくちゃだなあ、と思ったりして、でもこういうめちゃくちゃな人にも美点を見出していたりして、日本人の言葉遣いの「やる」「あげる」に敏感であったこのおじいちゃんが、人間臭い人にも見えた。

 

私が渡辺京二のエッセイを読もうと思ったのは、学問をやる人間の心構えとでもいうべきものを、自信をなくしていた時に読みたいと思ったからだが、渡辺京二のように根無し草というか、一人で文筆と言う仕事をして食べていく、ということをやっていくのはとても大変だろうなという気がした。

 

「母校愛」について述べられていて、朝読んだ時にこれについて書きたいと思ったから、書いておこうと思う。

 

私はずっと卒業していた大学を好きでいた。二人ほど好きな先生もできたし、自分の知らないことがまだまだ広がっているという場所が大学であるというのも好きだった。自分の語学のできなさには絶望したけれども、それもシステムの問題だと納得してごまかしてきた部分もあるし、入学から卒業まで面倒を見ていただいた場所であることには変わらなく、感謝している。

けれどもこの間、恩師の退官記念講演会に行った時、「いつまでもここにこだわっているわけにはいられない」という気が、大学の敷地をまたいで松の木を眺めた時に思った。

また、卒論を読み直している中で、自分が研究したいもの・書きたいもの・考察していきたいことはもっと別にあるのだ、という気にもなり、また読んでいる中で自分は大学の集大成として書いたつもりだったけれど、また言い訳としてはテーマが難しいということもあるけれど、でも何かをできた気には全然ならなかった、というのも反省点としてあがる。

 

だからこの間行った大学では、自分が受け取る側になるだけではいけない、自分は自分なりにこの人たちについていって、吸収できるものはどんどん吸収しないと、という気にもなり、また、この人たちの読むものも同時に見切っていかないと行かないなという気分にもなった。

 

だから大学に行って教養を身につけたような気になっている自分のことがすごく嫌になったし、やはり私は何も知らない、何も知ってはいないけど、知ることや感じることは大切にしていきたいという気にもさせられた。

 

渡辺京二という人は時々、現代の私のような若者(といっても、アラサーではあるけれど)にも共感するような、はっとするような言葉をくれる。

でもこの人の言うことが絶対ではない。

絶対ではないけれど、大量に読み、生活し、一人の思想家として生きていたということは見過ごすことはできない。

 

「学ぶ」ということについて、人は何からも学ぶことはできるのだろうけれども、その方向性や理想は掲げる必要があると知ることのできる一冊だった。