ティム・インゴルドの『人類学とは何か』をようやく読んだ~。
人類学という学問について、生態人類学など、「文化人類学」でない、生物学的な進化論が流入されたことにより、「本質主義」と「継承」という問題が生じ、結局のところ、人類学で今まで扱ってきたのは集団と集団の分断ではなかったか、しかし今人類学で求められているのは、この自然・有機的な社会で「ともに生きる」という態度ではないのだろうか――という問題提起を含む人類学のアプローチの仕方について、再度考え直す本だった。
私は文化人類学という学問について、「文化の差異を知ることで、自分の文化について考察を深める学問」という認識を持っていたので、他者の文化や語りを自分の文化に翻訳しなおす、という行為についてはわかりつつ、目を背けてきた部分があると思う。
また、「遺伝」と「継承」に落ち着いてしまうのではないか、結局「人種」と「文化」が問題とされないか、ということについて、最近人と話していた思考実験を思い出しながら読んでいた。
もし、私が論じたように、それが人々についての研究をするというよりもむしろ、人々とともに研究する方法であるならば、それ独自の知的領分を主張できるなどどうして言えようか? *1
この言葉からもわかるように、私は人類学者をどこかずっと一貫して観察者で、それは知的な特権行為なのだと思ってきた。人類学というものは、文化の媒介をする人間であり、だから文化と接触することがゆるされてきているのだと、心のうちに思っていたのかもしれない。
インゴルドはそのような態度を批判する。
そして人類学についてこう語る。
人類学は、文化や何か別のものに対して排他的な要求をすることはない。研究の風景は、社会的な生それ自体の風景のように途切れることがない。(略)人類学は人の夢を追い、世界の皮膚の下に潜り込み、内側から知り、観察から学ぶことに関わっている。*2
関係論と属性については、常々興味を持ってきたテーマであり、そのことについてインゴルドが触れていたので、私のアプローチ*3は間違っていない、という確信を持てた。
けれどもこの本はインゴルドの思索が強く表れていたということもあって、第1章は難しく感じた。構造主義についての本を読んでいたので、第4章については、なるほどと得心しながら読んだ。
全体的に、もう一度かみ砕いて読む必要がある本だなと思った。*4
この本では広く科学という観点から人類学を説明しようとも試みられている。
(本人は、科学も人文にも懐疑的だったと言っており、最終的にはアートと親和性があるようなことを言っていたのだけれど)、生物学的な遺伝という考え方、「本質主義」と「継承」にどこまで我々が立ち向かえるかということが人類学という学問で追求できるのではないかという可能性が提示されており、このアプローチの仕方にとても共感した。