洗濯ものを干した後、コーヒーを淹れて本を読み終えた。その感想をブログにアップして、お皿洗いや買い物に出かけたあと、「エビとセロリのペペロンチーノをつくった。11時半くらいだったと思う。
インフルエンザで寝込んでいたパートナーにはえらく不評で、その夜、「あなたは守破離の守にいるんですから、いきなり離をやっちゃダメです」と言われた。
「昨日に『あなたはつくったものをなんでも美味しいって言ってくれる』って言われたから試されているのかと思った」
などと言い、
「でもよくよく話をきいてみればはちみつさんも美味しくないようだと思っているようで、『ん?』って思った」
と言っていた。
昼過ぎにそのようにしてえらく不評であったパスタ(私は味付けにリンゴ酢を使ったのがよくなかったんだと思う。エビとセロリ自体はよくある組み合わせである。パートナー曰く、その二つは苦手ということだったけれど)を食べ、花を買いに出かけた。
今、家のダイニングにはクリーム色のガーベラと白いスイートピーが飾られている。
お花は気分もよくなるし、心が明るくなるのだった。
飾っている花瓶はパートナーが付き合って1年の時にプレゼントしてくれたものである。
Xで知り合ったフォロワーの卒業論文を読み、「論文とはこのように書くのか」と感嘆した。一つ一つ読んで、必要な箇所にはコピーしたところに線を引っ張り、しるしをつけて読んだ。全部読み終わるのには一時間くらいを要したと思う。感想を書いてメールした。
翌日、このメールに対して返信がきていて、「自分はうまく感想を書けたかな」とか「これについてはやっぱりちゃんと述べられていたってことかな――。もう一回読み直そうかな」などと読み手としての己を省みた。
返信の内容とそれ自体はとても嬉しく、勇気づけられるものだった。卒業論文のリライトについて、とても意欲的になれたので、教えていただいた本をさっそくhontoで注文した。
(余談だが、hontoの運送サービスが3月でなくなってしまうの、とてもかなしい)。
論文を読み終えた後、パートナーと一緒に神社まで散歩をした。パートナーは「はちみつさんの豚肉嫌いを克服してほしい」と言い、「このカルボナーラが美味しそうなんだ」と動画をみせてくれた。
お参りをして帰宅をして、だらだらと録画していた『王様のブランチ』を見て、「シンガポールはこういうところなんだねー」などと話した。
夕食を何にするか決めた後、人に誘われていたちょっとローカルな学会に参加しようと思っていたので、パートナーに駅まで見送ってもらい、発表を聴きに行った。
その学会で思ったことは、視点をローカル>国内>海外と空間的な規模を大きくして発表をすることには意味があるということ、発表それ自体をすることで、ブラッシュアップされる側面があること、学問としての「お作法」を身につけることで、その分野の人にもっと受け入れられるようになることなどだった。
だから、国内の学者が積極的に国際誌に掲載したりすることや、海外のワークショップで発表することは、研究をより深く広くするという点においてかなり大きな意味があるのだと思った。「実績」としか言われないけれど、視野を広くする、自分より研究している人に会う、というのは手痛いこともあるだろうけど意味のあることだと思った。
そういう意味で何か国語かを勉強しておく、というのはよいことだと思う。
帰りに宮崎駿の『君たちはどう生きるか』がなんであまり受けいれられなかったのかな~と思うところに、「中途半端に理解をさせてしまう」ところがあるからなのかな、とも思った。でも、作家個人の心象風景だけでなく、その成長や意義を丁寧に拾っていくのが受け手としての仕事であるはずなので、社会的な意義を見出すことは誰にとっても必要なのかなとも思った。
そんなことを考えながら駅から歩いていると、ふと、卒業旅行と称して2019年に行ったバングラディシュ、首都ダッカでの一コマを思い出した。
タクシーに乗っていると、窓を叩き、「お花だよ! お花を買って!」と懸命に叫んで歩き回る女の子たちがいた。(言葉がわかったわけではないが、その形相からそう言っているのだとわかった)。
その女の子たちの、そのお花が売れなかったとき、何が起こるのか私にはわからなかったけれど、世界の暗部というものをその女の子の懸命さに見た気がした。彼女たちは花が売れたら虐待をされるのだろうか。ご飯を食べさせてもらえないのだろうか。それとももっと恐ろしい目に合うのだろうか。
「見るな」とタクシーの同乗者に言われた。
どうして学会に行った後にそのようなことを思い出したのかわからない。
その日に花を買っていたからかもしれない。
でもどちらかというと、私がその花売りの女の子のことを思い出したのは、その学会に触発されたからだと思った。自分ではなぜそれが想起されたのかはわからないが。
帰宅するとパートナーが食器を洗ってくれていた。
その夜、私たちは大河ドラマを見て、ゲーム(『逆転裁判』)を二人でして、眠りについた。
月並みかもしれないが、私は愛と祈りを忘れずにいたいと思った。
この愛や祈りがどこかで忘れられている世界に対して。