パートナーからいつ帰る、という連絡が今日はまだない。
最近のパートナーはかなり疲れているようにみえ、辛そうにみえている。そんな彼の様子を見て、また、「一人にしてほしい」と言うのを聞いて、その場では「そっか」などと言うのだが、こうして一人でパソコンに向かっている時、自分のことを振り返らないではいられなかった。
私はパートナーにとって「遠く」に感じられるのだろう。
テーブルがオレンジオイルできれいになったのをみて、「きれいになったね」と喜ぶよりも観た映画のことを思い出して、またパートナーが前につぶやいたことを思い出して、この人にとってそれがどういう意味を持っていたのだろう、などと考えているうちに「きれいになったね」と喜ぶタイミングを逃したのである。
一緒にいることの楽しさも感じるけれど、休日が違っていたり、私がぼうっとしているのでパートナーにはきっと寂しい思いをさせているのだろうと思う。いつまでもずっと遠く遠くをみているところが、あたりまえの今に私がいないことが、あなたを随分寂しくさせたのだろうね、とも思う。
パートナーがどうだかわからないが、私はこうして一人でいると、パートナーのことを思い出している。昨日は辛そうだったなぁ、とか、その人が今まで置かれていた環境とか、どういう人なのか、とかを考える。これは、ツイッターとか本で紛らわせようとしてもだめなんである。また、私がパートナーに対して、一緒にいることがどれくらい大切な時間になっているのか、全然伝えられていない。
そう思ってはたと、そういうことは洗濯をするとかお皿を洗うということでしか、表現できないんじゃないかという気がした。一緒に生活をする、愛するとはつまり、掃除をしたり面白いねと笑いあえたり、そういうことなのではないかとふと思った。
どうしたら、近くにいると感じてもらえるだろう。
私はあなたのことを愛しているんだと伝えられるだろう。
前に、「どれくらい好き?」と訊かれて、「これくらい」と親指と人差し指が離れたくらいの大きさにして、「大大大好きだよ、って言って肩幅くらいの大きさで持って抱きしめてくれると思ったのにな」と言われたのを思い出して今ちょっと涙がにじんだ。視界がぼやけるので指でふいて、部屋を眺めた。携帯が鳴っていたのを思い出したので寝室に行って画面を眺めたら、ただの広告だったので連絡がまだ来ないことを少しかなしんだ。
こういう文章はいつもは自分用のワードに書き起こすようにしている。だけどパートナーがどこかで読んでくれることを期待してこうしてブログに書いている。
私は冷ややかな子どもに見えるだろう、ごめんね。だけどほんとうはあなたのことをとても愛しているんだ、それをもっと伝えられたらいいんだけど。
今日も帰ってくるのを待っているね。