はちみつのdiary

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観た:『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』

ティム・バートン版『チャーリーとチョコレート工場』が日本で公開されたのは2005年のことだったらしい。私が10歳にもならない時のことである。

バートン版を観る前に、ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』(評論社)を読んでいたので、ウィリー・ウォンカが若い頃どういう人物だったか? というお話にはとても心惹かれるものがあった。

 

そういえば大学生の時に、「ロアルド・ダールが好きだ」と言っていた女の子がいたけれども彼女は元気にしているだろうか……?

 

閑話休題

 

ティモシー・シャラメ演じるウィリー・ウォンカは夢のある青年、童心を忘れない若き発明家、という感じで観ていてちょっと不安にさせた。自分が10歳くらいの時だったら、シャラメ版ウォンカは頼もしい人物に見えただろうか? わからない。

 

なんで相棒が女の子だったのだろう、とか「でもウィリー・ウォンカを演じるのが黒人俳優にはならないのではないか」などとパートナーに挟んだら、「作品にジェンダーや人種について読み取ろうとする態度の方がナンセンスだと思う」と言われて「そうか……」と思った。ポストコロニアリズム、もうちょっと勉強したい……。

 

でもそうしたら「チョコレート」という題材そのものがオリエンタルなものなのかな? とも思った。

 

余談だけど大学生の時、フランス語の授業で『ショコラ 君がいて、僕がいる』という映画を観た。(主演のオマール・シーは『最強のふたり』のドリス役だった)、主人公の名前が「ショコラ」というだったけど、人種問題について扱っていた話だったな……。(というか、私が大学生の頃は映画業界が人種差別的であることを変えようととしていた時期だったのである)。

 

パートナーは「人種について作品に持ち込むのはナンセンスだと思う」と言いながらも、「話題になっている『リトル・マーメイド』については、広告の仕方が違うと思う」などと言っていた。アファーマティブ・アクションは公正と言えるのか? みたいな話である。

 

話題は続き、「チョコレートはなぜ魅力的なのか」という話になり、家に帰ってカカオ・サンパカのチョコレートを食べながら「チョコというものは……異国情緒があるね」というこれまたポルトコロニアル批評に引っ掛かりそうな発想に辿り着いた。

 

うーん、でも「チョコレート」っていう題材が微妙なものだからこそ配役などに気を配ったという気がしないでもない。

原作の『チョコレート工場の秘密』について、「なんか『オリバー・ツイスト』みたいな話だよね~」とこれは二人で共通の見解に至ったのだが、児童文学というものは得てしてそういうものなのだろうか? とも疑問に思った。

 

つまり、児童文学というものはやはり大人が「子どもの視点で」「夢にあふれた冒険の世界」を送り届けるものだろうか? 

ということである。

 

「子供」は近代になって誕生した、と歴史学者フィリップ・アリエスは論じたらしいけれども、果たして現代の子どもや、これから生まれてくる子どもはこの『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』をどのように観るのだろうか? と思いを馳せた。

 

いや私は『チョコレート工場の秘密』は好きでしたが、それは「正直で誠実であることを美徳としよう」という教訓めいた願いのようなものを幼心に持っていたからかもしれません。それで言うと今回の『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』は、いささか大げさすぎる気もする。

 

……そう思うのは私がもう大人になってしまったからなのだろうか。