はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『気はやさしくて力持ち』

内田樹×三砂ちづるの往復書簡、『気はやさしくて力持ち』を読んだ。

 

もともと友人に本を送ろうと思っていたのだが、その本がなかったので、「子育てについて対談しています」と宣伝していた本を送ろうと思い、読まずに送るのは勿体ないから読んだ、というわけ。

 

本はチョコレートと違って包み紙や箱を開けて味わってみてもなくならないのがいいです。

 

さて、「子育て論」とはいうものの、学校がどんなところだったかな~、とか「母性」に対して私は一過言あります! とか『細雪』の世界が表していたのは~とか、往復書簡という形をとっているからか、自由に話が広がります。

 

今日の感想はやはり『ジェンダー』を扱っていきたいと思う。

 

私の周りの友達や家族はとても働き者で、あんまりインスタとかで見るような「朝は酵素ダイエット♡ ジムに行ってネイルサロン♡」みたいな人は実生活では見かけたことがない。でも世の中では、そういう人がもてはやされていたりとか、良い暮らしをしている、と見なされている。私はそういう、若さや美貌を切り売りするようなあり方を羨望しつつも、「ほんとうによいことなのか……?」と立ち止まって考えたい。

 

確かに、女性が家庭を切り盛りし、男性が働く、という従来のモデルは「よく」できていた。というのは、だから働いている女性が割を食っているんだ、というわけではない。(断じてない)。子どもを見守る人が家にいる、という観点ではよくできていた制度だったのだ。そして子どもは、外に冒険をする必要もあるけれど、冒険を必ずしなくてはいけないとか、必ずしも集団に所属しなくてはいけない、と強制される必要はそんなになかったのである。

自分は守られている、という安心感で育つことができたし、育つ中で親戚や近所の人や友だちや自然(水であったりトンボであったり)と付き合い方を学ぶことができた。

でも家にいることが辛い「親」がいた。「親」として家にいるよりも、「外」に出て働いている方が評価される、という人がいて、そういう人たちにとっては、「学校に行くこと」や「働くこと」の方がよい、ということになった。「家」は、恋愛だったり家同士の結婚だったりの「親」または「親の親」の事情で居づらい場所だったから、居づらい場所にいたり、誰かと深く関わったりするよりも自分の生きやすい場所で生きる方がいいと考えた。こうして深く人と関わらない生き方を選ぶ自由を持ったのが2023年時点で30代~40代にあたる人たちだと思う。

 

今の世代を考えようとすると、その親にあたる世代がどういう時代に生まれ育ったか、を考える必要がある。(と、個人的には思っている)。

 

私は96年生まれでギリ”Z世代”である。(ほんとか?)

私の親は60年代後半~70年代前半生まれ(つまり現在50代)。親の親世代は第二次世界大戦終結時点で小学生くらいを過ごしているのである。

 

しかし私が時代の空気を読み取れるのは文学しかないので、ここでは小説を紹介しよう。

村上春樹の『ノルウェイの森』に描かれている学生時代(1968年)で学生運動の描写があり、大学は一昔はずいぶんのんびりして平和そうだな、という印象を私は持っていた。(し、そういう空気にとても憧れていたし、実際2010年代半ばの大学というのはそんなゆるゆるした面も持ちつつ、みんなばんばん海外に遊びに行って、インターンシップをして、「やりたいこと」を追求していた)。

私の若干上の世代(1990年くらいの生まれの人)は何かロールモデルを期待された人たちが多く、会社に就職して、家庭を持って……親に「恩返し」していく、というぱっと見た感じでは「期待通り」に生きている人と、「自分たちの手ざわりの幸せ」を追い求めた世代が多いかな、という印象を持っている。「自分たちの手ざわりの幸せ」というのは、「丁寧な」暮らしかもしれないし、「推し活」かもしれない。

 

そういう人たちを見ているので、私たちの世代の男性は、なんか、「一人で生きていく、なんてことは言ってられない。パートナーを探さなきゃ。これでは一人前の男とは言えない」という人と、「一人で生きていられるくらい自分の生活はまあ適度に完璧さ。アイドルにだって会いに行けるしね」という人に分かれている気がする。

(女性の方は、「自分に合う人を探したい!」という人が男性よりもっと多くて、結婚によりポジティブ、な感触がある。)

 

私は結婚や出産や子育てはよいことだと思っている。

 

苦労を知らない、とか、いろいろ言いたいことがある人もいると思うんですけど、誰かと生きていくのは、やはり、しあわせなことだと思うし、そのようにして私たちの歴史というのはつくられてきたし、私たちも歴史をつくっていく必要がある、と思うのである。

 

結婚というものを苦しく感じてしまう人もいるのかもしれない。恋愛というものはひどく傷ついたり傷つけられたりする。確かにそういうものはひりひりとした痛みを持つから、そんな風に誰かに自分の存在ごとぶつかり、自分もまた、誰かの存在をまるごと受け止める、ということが難しく感じられて結婚というものを諦める人もいるのかもしれない。自分の全てをぶつけるのは怖いから、女性であれば若くて美しいことをアピールし、男性であればステータスがあることをアピールするのであろう。反対に、そういう「若くて美しい」とか「ステータス」に釣られて結婚をしたくはない、という人もいて、だから、「社会的な状況として」、「結婚」は難しくなっているのであろう。

 

内田樹さんも三砂ちづるさんも二人とも離婚を経験されている。結婚生活、というものは続けるのは難しいものなのであろう。それは一つの壮大な物語であったし、その壮大な物語を二人とも今も生き続けているのだ。そして、今お二人は世代を交代して――「家族旅行でバリ島に行ってみる」とか――をすることで、家族というものを「個人の物語」から「より広がった物語」として見つめている。

 

本書は「子育て」について書かれようとした本であるが、「子育て」というのはハウツーではなく、それぞれがそれぞれに子どもと対峙して(あるいは自分の「親」と対峙して)やるものなのだろう、と思った。

 

世代をつくっていくのは、私たちの番になっている、と楽しみなようなことも思った。