はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

『追想せる住人』を観てきた。

北池袋で劇団FAXの演劇を観てきた。

演劇といえば、小学生の頃は観てたけど、大人になってからはイザベル・ユペール様の演技を見たさに新国立劇場へと馳せ参じた9月以来である。

 

閑話休題

 

一緒に観に行った人は「人の死をエンタメとして消費しろってことじゃないの?」「他人のせいにできたからりっちゃんは救われたんじゃないの?」と言っていてなるほどと思った。

 

私は、北園刑事が言う「こんなのはオナニーだ」というのが印象に残っていて、「人の死はエンタメで救えるか?」というテーマの自己批判のようなものが気になった。

エンタメと文学の融合、のような劇を目指したのかもしれない。

でもそれにしては主人公のりっちゃんの悲しみがあまり伝わらなかったように思う。(りっちゃん役の人の表情の豊かさは素敵だったし、とても光っていた。だからこれは台詞や設定の問題だったと思う。)

 

死というものについて、私はよく考える。

大抵は自分が死ぬことについて考えている。(中学生の頃は自殺について考えていたが、社会人になってある幻覚をみてから、自殺はほんとうにしたらダメだと思うようになった)。

メメントモリ、という言葉を忘れずにいる。

 

閑話休題

劇に話を戻す。

 

私はあずみという人物がどのような人なのか、彼が死ぬということが、彼の中でどのようなことだったのかが見えてこず、(見えてこないなら全く見えてこないでいいのだが)、あずみも、あずみを好きだったりっちゃんという関係も「設定」以上のものを与えられていない気がしていて、エンタメやコメディとしては構成も上手くてよくまとまっていても、文学的作品としての完成度は高くはない、と思った。

 

もちろん芝居は最高だったし、観ていて飽きさせない工夫を至る所に詰め合わせていたと思う。

でも「人の死」というものをミステリーにするには、なんというか、「死」というものや、「人間」というものに向き合う感度のようなものが足りないのではと思ったのだ。

 

私のような分際がそんなことを言うの、何様って感じなの、わかっている。

でも創作をしようとする人間、批評を試みようとする人間、よりよい芸術を目指す人間として思ったことを書かないわけにはいかなかった。

 

私も同じテーマで何か書こうと思う。