はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

『牯嶺街少年殺人事件』/エドワード・ヤン (1991)

「クーリンチェ」を観るのは三度目である。

日比谷シャンテで観た。

観る前から、「なんで4時間もある映画なのに何度も観ちゃうんだろうなぁ」と思っていた。

 

1960年代の台湾を舞台に、一人の少年を主人公にして学校や家庭にはじまる「社会」を丁寧に描いていることが理由なのかなあ、と思いながらぼんやり観る。

 

最初にこれを観た時――大学生の頃は、単なるファム・ファタール小明に対する、小四の欲求の話だと思っていた。小明が「わたしは社会と同じ。かわらないのよ」と言う場面や、「みんなわたしを変えようとする」という台詞はだから、単に小明の男性によりかかるしかない生き方を小明が受容していて、彼女は人生に対する覚悟のようなものがあるのだと思っていた。

しかし、少年の心の中にある少女殺人というのは単なる、恋愛の執着とかそういうものを超えてあるのではないかという気も今はしている。

 

小四は建国中学の昼間部の劣等生だけれど、大学に行くことを期待されている子で、しかし自分というものがあまりない。自分がないけれど、周囲の暴力とか自分の心にある暗闇をぼんやりと感じ取ってはいる。

彼が感化されたのは小明の彼氏だったハニーで、「戦争と平和を読んだ」とか、あのカリスマ性に魅せられていた。ハニーに「小明はお前が好きだ。俺には一目でわかった」と言われたことで、ハニーをモデルとして、ハニーを超える自分というものをつくりたかったのではないかと思った。

でも……、正直言って、私は小明が小四に惹かれる要素はどこにもないのでは、とやはり思ってしまうのだ。

小四は単に「女の子が自分を好きでいてくれるというだけで、男子がよくする勘違い」(たとえば君を守るよ、とか)をしただけに見えてしまうのだ。

 自分が期待されていた学問もできない、喧嘩もできない、別に何かが取り立てて好きと言うわけでもない、そういう自分を心の底で軽蔑していて、父親のこともあんまり尊敬できていなくて、ただより強くあること――強いという意味を取り違えていて、刀を使うとか銃で遊んでみるとか、影響力を及ぼしたいとか――があれば所在ない世界で自分の居場所をつくることができると思っていたのではないかと思う。

 そして「自分の居場所をつくる」というのはことに男性においてありがちなテーマなのではないかと思った。

 それはプライドの問題だったり、家族からの期待だったりするのかもしれないけれど――、組織や社会において、いかに自分が人の期待に応えられる自分であるか、は割と自分のあり方を決めていない男性に顕著なのではないかという印象を持つ。

 

「クーリンチェ」を繰り返しみて、そこに私が見出したいと思っているのは、エドワード・ヤンの描く「社会」であり、男性特有の暗闇と光がどんなものなのかを覗き込みたくなるからなのだろう。

 

話は変わるけれど、今、ヴァージニア・ウルフの『自分一人の部屋』を読み返していて、いくつか気になる文章があった。

 

たとえば

 

過去何世紀にもわたって、女性は鏡の役割を務めてきました。鏡には魔法の甘美な力が備わっていて、男性の姿を二倍に拡大して映してきました。その力がなければ、たぶん地球はまだ沼地とジャングルのままでしょう。数々の栄光ある戦争も、きっと遂行されなかったことでしょう。(中略)

文明社会において鏡はさまざまな用途に使われていますが、すべての暴力的で英雄的な行為にはどうしても鏡が欠かせません。だからこそナポレオンもムッソリーニも、女性は劣っているとムキになって言い募るのです。*1

 

この指摘は的を射ているのではないか。

 

ヤンが描いたのは「鏡」を必要とする暴力に関する考察――しかもこの暴力は台湾の外省人本省人というエスニシティに関する構造的な暴力も含む――であり、政治的な暴力が子どもの心にどのような影響をもたらすか? という社会への問いを描写しようとしたのではないか、と思った。

 

だからこの映画は「社会」を描写し、「少年の心の暗部」を描写し、それらを「ボーイ・ミーツ・ガール」仕立てにすることで、「暴力」の構造を明らかにする映画なのである。

 

台湾の政治や、国家の仕組み、1960年代から今にいたるまでの情勢の変化――を私は知らない。これらはきちんと知られなくてはならないことである。

またそれ以上に、人間のこころというものが、どのようなものなのか――人間の暗部の考察をすることで、少なくとも私たちは――誰かを知りたいと思うことができるのではないかと思った。

 

 

 

*1:ヴァージニア・ウルフ、片山亜紀訳、『自分ひとりの部屋』、平凡社、2015年、p.64