はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

東京に来た。

準備なども、実家に立ち寄った方がいいか、とか妹の結婚式はいつか、というような電話をした。

すると母が日曜日に東京に来ることが判明し、まあ同じタイミングならご飯でも一緒に食べようかという話になった。どきどきである。

 

夕方発の飛行機に乗ったのだが、夕食にありつけたのは21時のことだった。

丸亀製麺をみつけて、いそいそとうどんを食べ、釜玉うどんの美味しさに感動した。

その後電車に揺られて東京にゃんにゃんOL()をしていた頃になじみがあった街で宿をとり、そこに向かいながら、「通ったことのあるところだ」と感激し、3月特有の春の新しい空気が夜に漂っていることがわかってなんだか嬉しかった。

 

北海道ではまだ雪が降っていて、曇りの日もあるから、東京の春ってこんな感じだったなあとちょっと浮足立った。

 

今日は二冊本を持ってきている。

ジョン・アーヴィングの『ひとりの体で(上)』と岩波の『ジェンダー史10講』という本である。そういえば、どちらも性に関する本だな……。

 

宿泊したホテルでさっとシャワーを浴び、化粧をした。近くのコンビニで日焼け止めを買い、今はカフェで待ちゆく人を眺めている、というわけ。

 

今日はお昼からゼミ生の集い、があり、懐かしい人に会えるといいなあというお気持ちである。

 

パートナー氏からこのお菓子が食べたい、と言われているものがあるのでそれも買って帰るつもりでいる。

 

久しぶりの東京、嬉しい。

今日はおやすみ

土曜日にあんまり睡眠がとれず、日曜日も遅くまで起きていたので、今日は1時間ほど居眠りを午前中にしてしまった。

パートナー氏の持ってきた本を本棚に並べ、本棚が少々厳つくなってきたことに気づく。

今日は午前に岡野八代さんの『ケアの倫理』(岩波新書)を途中まで読んだ。アメリカ合衆国フェミニズムと日本のフェミニズムはだいぶ動きが違うようだな……と思いつつ、心理学者で聞き取り調査をしていたギリガンという研究者に興味を持ったので、「ケア」ということがどんなことなのか、考えていきたい。

午後にはPhotoshopをいじる予定である。

 

今日は家では淡いブルーのカットソーにジャージー素材のパンツという姿で過ごしている。部屋にいるようのラフな服装でこの服を着ている自分が結構好きだ。

 

北海道はまだ雪の降る日が続くけれど、今日はやわらかな日差しがカーテン越しに部屋を明るくしてくれている。春がきたんだという気がした。

 

パートナーの持っている本を段ボールから拾い上げながら「こんな本を持っていたんだ」とか「この本読んだことあるな」という本が何冊も出てきてて、自分と同じものを共有している人がいるんだ、と思った。音楽を聴いている時も、話している時も、まあ時にすれ違いが起きたりはするのだけれども、なんとなく一緒にいて楽しい、と思うことが多くて、自分の中でその人がほんとうにかけがえのない人になってきており、びっくりするのだった。

 

拾い上げた本をみて、「ああ、これは買おうかどうか迷った京都の一乗寺にある本屋さんの本だな」と思った時に、ぽろっと、旅行した京都ののんびりした夕焼けのあるなんでもない街並みとか、そこのドラッグストアで日焼け止めクリームを買ったこととか、を思い出した。

 

昨日はパートナーがレモンクリームとそら豆のパスタをつくってくれて、料理ができる間、私は家に来たばっかりのソファに腰掛けて本を読んだりしていて、そういう時間もとても幸せだなあと思った。

 

洗濯機を回して、洗濯物を干し、掃除機をかける。

洗濯ものをたたむ。洗い物をする。

 

コーヒーを淹れる。

 

またぽつぽつと書いて、そっとブログを閉じる。

 

ダイニングテーブルに飾ってある、神棚に目を留める。

 

私とパートナーの出会いは、きっといろんなものから見守られているんだなと思った。

 

牛ひき肉のハンバーグでお祝い

「今日は何にしようかなー」と言うと、パートナーが「お肉がいい」と言っていたので、夕飯をハンバーグにすることにした。私は豚肉をできるだけ避けているので、牛100のハンバーグをつくるのである。

この間に鶏肉と豆腐のハンバーグをつくり、それも「美味しかった」と褒められたので、在野のハンバーグ職人になれるくらいになろうと思い、国産黒毛和牛210gを買って家で料理の支度をした。

ハンバーグにするのは、パートナーの希望もあったが、私自身めでたいと思ったことがあるからである。

今年のテーマは”Celebrate”である。『できることを一杯増やして、何かできるようになる度、お祝いをする』と書いた。

この日は確定申告のためのe-TaxのIDとパスワードを取得した。

また、研究室訪問に行った先生に連絡をして、4月から授業の一部に参加してよいことになった。そのようにして、着々と研究をする準備を進めている。

あー、仕事を辞める準備をしているんだなぁと思った。

心ではお仕事を辞めることはもう決めている。院試に向けて準備をしたい、ということもそうだし、パートナーにもっとコミットできる時間を増やしたい、とも思うからである。

「この仕事をしていて思うんだけど、一緒に生活をしているだけで、旅行とかにも行けるかどうかわからない、というのは、実質遠距離恋愛をしていた頃と変わらないのではないだろうかと思った」

と、パートナーに告げると、

「言わなかったけど気づいてしまったか」

と言って彼は笑った。

晩御飯を一緒に食べて、一緒に眠るだけの生活であったが、休日がなかなか合わずにいるということは、なんか違うなぁと思ったのだ。まあ、もちろん東京でOLをしていた頃に比べて、長電話をすることもなくなったし、毎日一緒にいられるし、よくはなったのだけれども。

 

ハンバーグを片面焼き始めると、パートナーが帰ってきた。

「良い匂いがする~」

と言っていた。時刻は20時半である。

「今日はハンバーグって聞いていたから赤ワインを買っちゃった」

と言ってボトルのワインを差し出してくれた。

「え、言わなかったけど買ってきてくれてとってもうれしい。ありがとう」

と感謝を伝えて、

「別の料理もあるから先食べていていいよ」

と言った。

「いいよ、僕だけ先に食べるというのもなんだから、それだったらお皿を洗っているよ」

とパートナーは申し出てくれ、私はハンバーグを焼き、彼は鍋や皿を洗った。

 

その日にあったことや、嬉しかったことや、もやもやしたことを話したりした。パートナーは最近の買い物で悔しかったこと(大根の値段のこと)を話していた。

 

お仕事を辞めるということは、まあ、ずっとよくないことだと思っていた。

でももうこのタイミングしかないのである。これを逃すと、もっとずっとずっと後悔してしまうし、研究をするということが、自分にとってはすごくプラスになっていくということが、考えてみても、どう考えてみても、直感でもいいと思えるのだ。

「でもさ、大学の授業に参加するとなって、周りの子とかみんな年下なんだよ。話合わせられる?」

とパートナーが聞いた。

「社会人と学生では何が違うんですか、って聞かれそうだから用意しておくんだけどね」

と前置きをして私は言う。

「いろんな仕事があるけど、協調することが大事だなと思うんだよね。何かを調整したりとか、他の人とうまくやることを考える必要がある。学生は自分の内側にひたすら問いかけていくだけでいい。そこが違うかなと思うんだよね」

「つまりあなたは協調ができなかったのですね」

「そうです」

 

しかしまあ、研究において協調することが全くないか、と言われるとそういうことではない。共同研究ということだってありうるし、私の研究していく分野は集団について知る分野なのである。だからまあ、自分のやっていることややってきたことがすごく違うか、とか、そういうことが全く必要ではないか、というとそうではない。自分の特性や個性を活かせる方向について苦しみながらも真剣に考えた結果、お仕事は辞めた方が良さそうだ、という結論に至ったのである。

 

「次の転勤先はまた東京になるだろう」

というようなことをパートナーが言った。

それを聞いて、「東京ですか」と思った。

 

次の日に起きて大学がやっている外国語の講座をみつけた。

スワヒリ語とか、ウルドゥー語とか、アフリカーンス語とかいろいろあり、いろいろあった中で、「この国に行こう」と思う国があったので申し込みをした。

 

パートナー氏は今、TOEICを自宅受験している。

いろんなところに一緒に旅したい。

寂しさ、のようなもの

パートナーからいつ帰る、という連絡が今日はまだない。

最近のパートナーはかなり疲れているようにみえ、辛そうにみえている。そんな彼の様子を見て、また、「一人にしてほしい」と言うのを聞いて、その場では「そっか」などと言うのだが、こうして一人でパソコンに向かっている時、自分のことを振り返らないではいられなかった。

 

私はパートナーにとって「遠く」に感じられるのだろう。

テーブルがオレンジオイルできれいになったのをみて、「きれいになったね」と喜ぶよりも観た映画のことを思い出して、またパートナーが前につぶやいたことを思い出して、この人にとってそれがどういう意味を持っていたのだろう、などと考えているうちに「きれいになったね」と喜ぶタイミングを逃したのである。

 

一緒にいることの楽しさも感じるけれど、休日が違っていたり、私がぼうっとしているのでパートナーにはきっと寂しい思いをさせているのだろうと思う。いつまでもずっと遠く遠くをみているところが、あたりまえの今に私がいないことが、あなたを随分寂しくさせたのだろうね、とも思う。

パートナーがどうだかわからないが、私はこうして一人でいると、パートナーのことを思い出している。昨日は辛そうだったなぁ、とか、その人が今まで置かれていた環境とか、どういう人なのか、とかを考える。これは、ツイッターとか本で紛らわせようとしてもだめなんである。また、私がパートナーに対して、一緒にいることがどれくらい大切な時間になっているのか、全然伝えられていない。

そう思ってはたと、そういうことは洗濯をするとかお皿を洗うということでしか、表現できないんじゃないかという気がした。一緒に生活をする、愛するとはつまり、掃除をしたり面白いねと笑いあえたり、そういうことなのではないかとふと思った。

 

どうしたら、近くにいると感じてもらえるだろう。

私はあなたのことを愛しているんだと伝えられるだろう。

 

前に、「どれくらい好き?」と訊かれて、「これくらい」と親指と人差し指が離れたくらいの大きさにして、「大大大好きだよ、って言って肩幅くらいの大きさで持って抱きしめてくれると思ったのにな」と言われたのを思い出して今ちょっと涙がにじんだ。視界がぼやけるので指でふいて、部屋を眺めた。携帯が鳴っていたのを思い出したので寝室に行って画面を眺めたら、ただの広告だったので連絡がまだ来ないことを少しかなしんだ。

 

こういう文章はいつもは自分用のワードに書き起こすようにしている。だけどパートナーがどこかで読んでくれることを期待してこうしてブログに書いている。

 

私は冷ややかな子どもに見えるだろう、ごめんね。だけどほんとうはあなたのことをとても愛しているんだ、それをもっと伝えられたらいいんだけど。

今日も帰ってくるのを待っているね。

 

研究室へ行く

フィールドワーク報告会に行って報告を眺めたり、恩師と話したり、本を読んだりしていた。

12月にパートナーの大学の先輩だという人に会って、「修士課程に進学したいと思っていたらまずは研究室訪問に行くといい」というアドバイスを受けた。

学部時代の時に、散々「大学院に行きたいんです~」ということを指導教官や恩師に話し、「大学院は厳しい世界なんだぞ!」という言葉を浴びてきていたので、研究室訪問に行くのも随分躊躇ってしまっていた。(誤解のないように言っておきますが、「大学院は厳しい世界なんだぞ!」と言ってくださることはとてもありがたいことなのです)。

ということで、自分が読んできた本を整理したり、考え事や経歴についてワードやパワポに起こしつつ、学部時代の恩師のように「まず話すときにポイントをつくってから話せ」などと言われたらどうしようと思いながら研究室へ向かった。

(繰り返して言うが、学部時代の恩師の教えに感謝している)。

 

研究室訪問は、なんというか不思議な時間であった。

 

まず自分の来歴をスライドを使ってばーっと話し、次に興味のあることや関心・卒業論文で取り組んでいたことなどについて話した。話していくうちに、「この本がある」とおすすめの文献を次々に紹介してもらい、次に先生がどういう興味の変遷をたどって今どんなことを考えられているのか、などを聞いた。

 

話が写真の話や映画の話などに行ったり、学部時代の指導教官がこういう方針だったんですよね、などと話したり、理論的枠組みと研究の両方についてや、どういう研究者に注目しているかや、どんなものの考え方や学問の探求の仕方をしているのか、などがわかり、蒙を開かれた感じがあった。

 

私は理論的枠組みをやらなくてはいけない、とずっと思っていたけれども、学問のあり方としてはそれを超えるもっと普遍的なものの見方や考え方をして、世界についてふれて考えていっていいんだ、と思うことができた。

 

おそらく私は修士課程に進学するのだと思う。

 

「僕は修士に行くことは決めていたよ。博士はちょっと迷ったけどね」と、冒頭に何度か登場した恩師は言っていた。

5月だか6月だかの、緑が少し鬱蒼としている時にたまたま帰り道で遭遇してそんな話を聞いた。この恩師に卒業式に会おうと思ったり、指導教官に会うがてら会おうと思ったけれど、なぜか妙にばったり会うことが多かった大学4年に比べて、それ以降はさっぱり会えなくなってしまったのだった。

 

先生、今日研究室訪問をしてみて、自分が行こうとするところや向かいたいと思っている方向が、5年前よりももう少しはっきりしてきましたし、明るくなってきたような気がします。もし先生にこんなことを話したら、「それはまだ進学もしていないからでしょう」って、言われちゃいそうですが。

観た:『哀れなるものたち』

シェリーの『フランケンシュタイン』みたいな話なのかなー、それよりももっとフェミニズムに寄せた話なのかなーと思って観に行ったら、どちらかというと「男性の支配欲」についての話だと思った。

妊婦の死体から胎児を取り出してその脳を移植してできたのがベラ・バクスターという人間(エマ・ストーン)なのだが、彼女は世界をみてみたい、と言って駆け落ち同然の旅に出る。(しかしベラは別に駆け落ちとは思っていない。)セックスの喜びを知り、旅行をして、船で本を読むベラに、旅を提案したダンカンはベラに怒り、懇願し、溺れていく。しかしベラはダンカンの気分など意に介さない。

この映画を観て、ベラを「自由だ」という人もいると思うけれど、私は「なんて冷たい女なんだ……」と思ってしまった。けれども自分にもベラのような部分は持ち合わせているので、一概にベラを切り捨てることはできない。

一方で自分にはできないな、と思うのはセックスワークを人生経験として捉える点である。嫌な男は嫌、だし好きな男性についてはとことん好きになる、というのが女の本性だと思っているので、セックスすらも通過点にしてしまうベラがフェミニズム的な存在かと言われるとそうでもないのではないか……と思ってしまうのである。

「支配欲についての映画だと思う」と書いたのは、まあそれなりに思うところがあって、この映画ではいろんな男性がベラへの支配を試みる。まずはベクター博士で、父性的な役割をこなしているようだけれど、博士の「父」を自認し、「女」を「教育する」という観点はやはり一つの支配欲であるように見えた。わかりやすいピグマリオンコンプレックス、というか。マッキャンドルスは本当に面白みのない男で、ベラについて好意を寄せていたとしても、彼女に対して「こんなことは嫌だ」とかも言えない従順そうで誠実そうなふりをした退屈な男である。ベラは彼を「婚約者」と言うけれど、そこに愛はなさそうだし、どこに惹かれている、とかもないし、存在は薄いし、私がベラだったらこういう男の人は好きになれないなと思う。

ダンカンはわかりやすくて愛すべき男性の弱さのようなものを詰め込んだキャラクターだった。だんだんベラに対して懇願していくようになったり、結婚をほのめかしたり、ベラが読んでいる本を投げ捨てたりとかして、いかにもプライドが高く、女が成長していく過程というものを一見喜んでいるようで自分の小心さや狭量さを抑えきれない人物として描かれているのがよかった。ああいう人は世の中にはいっぱいいるけれどなかなか映画などには表象されないのではないかと思う。ディズニー映画で言えば『美女と野獣』のガストンがあてはまると思うけれど。

終盤で出てくる将軍に関しては、領土の話を出したり使用人を銃で脅したりする、誰もが嫌悪する人物であった。それなのに彼の最後に関しては「やりすぎでは」と思ってしまうあたり、私はああいう人でも何か人間的な心を持ち合わせているはず、と期待してしまう部分があるのかもしれない。

ベラは医学生になって自身を向上させ、父性を引き継ぐ人間となりました、ちゃんちゃん、という終わり方はなんかあんまり好きではなかった。

フェニミズムの映画に見えないのもそれが理由かもしれない。

 

私自身は結構ベラに自己投影しながら映画を観てしまってはいる。というのも、私にも男の嫉妬心といったものを軽くみている点があるのである。

男性の嫉妬心というものは、存在しているはずだけど、まるでないようにされている。紳士方は自分がどれくらい愛されているかに興味をお持ちで、興味をお持ちなのに、そんなことと自分は関係ありません、というふりをしている。関係ありません、というふりを続けたいから、女性にどれくらい愛されているかとか、自分をどれくらい守れているかということにご執心なのだ。これは時に全く愛してくれない女性を愛することで慰められる。自分が恋焦がれている女性がいる、でもその人は自分を愛してはくれない、でも自分はその人を愛し続ける、それが愛だと思うから……というように。この場合は大抵女性の方は好意を持っていない。でもご本人はそれを愛とお考えのようで、自身のナルシズムが満足するようであり、満足しないと言ってる場合ではその状況を楽しんでいるようにも見える。

 

だからベラを取り囲む男性は真心を持って接してくれないベラに対して、支配欲という形でしか関わることができない。彼らのナルシズムをベラは全く救ってくれないからである。

 

ベラが主人公のように描かれているから、女性の自由とか女性主体の、なんて思われてしまうのかもしれないけれど、私は男性の心に訴えかけず、やきもきもせず、切ない気持ちを一人押し殺している、みたいなしおらしい感じがベラには全然なくて、だから余計、ベラは鏡の役割をしていて、真の主人公はベラにまつわる男たちだ、と思った。

 

支配を試みる人たち、というのは哀れである。そこに能動的な愛はなく、エンパワメントする愛もなく、ただ愛してくれ、という叫びだけが暴力に換えられているからである。そんな人たちに囲まれているベラは少しも幸せそうではない。物語の最後に、女たちに囲まれ読書をするベラが描かれているけれども、セックスを切り離した冷感症の女にしか見えない。

 

もちろんこのベラという人間の批判には、私の、私に対する自己批判も込められているのである。

 

自分の中にある冷感症な部分が見えて切ない気持ちになる映画だった。

読んだ:『女に産土はいらない』

読んでいる中で意外だったことがあって、「学校に行けなくなってしまった」ということだった。

三砂ちづるさんは、女子大で国際保健を教えている人で、もともとは薬学部出身なのである。だけど、応用薬理学の研究室でラットを殺すことに耐えられず、学校に行けなくなってしまった、と。この時三砂さんを広い世界に連れ出してくれたというか、救ったのが歴史学の先生だったそうで、この先生とともにアフリカに行き、アフリカの水を飲んだ、ということが語られているのが印象的だった。

 

三砂さんの文章を読んでいると、とても働き者で、自分の興味・関心に沿って徹底的にやってきた人、という感じがする。

 

文章を読んでいてとても励まされたし、世界に対して常に好奇心を持っていることは悪いことではないし、私が居たいと思って、私らしくあれる場所は絶対どこかにあるんだという気持ちになった。