はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

3年ぶり二回目の『TENET』

クリストファー・ノーランの『TENET』をパートナーと一緒に観た。

私は3年ほど前に観ていたのだけど、「現代の科学、とか、未来、とか、それでも変わらない普遍的な何かが描かれているアクションを含む映画ってなんだろう?」と思って、「このあと映画でもみるかー」と言ったパートナーに「『TENET』を観よう」と激推ししたのだった。

 

『TENET』の時間の逆行と順行についてはたくさんの解説がでている。

だけど、私は映画では描かれなかったところに思いを馳せてしまうのであった。

 

※※※以下ネタバレを含みます※※※

 

 

 

 

 

 

やっぱり最初に観た時の感動はそのままあり、ラストというか、セイターの故郷でのミッションの後についてのプロタゴニストとニールのやりとりがとても印象に残っていたから、2回目はじめて観た時の二人の邂逅のシーンにはっとさせられてしまった。

 

ニールはとても緊張しているように見えたし、これからサイジェン・シンに会いに行く、という話にとても驚いている。ダイエット・コークのくだりについては、私は「プロタゴニストの〈現在〉とニールの〈過去の過去〉」を表しているのだと思った。「未来のプロタゴニストから現在から未来まで変わらない自分の好みを知っているほど親しい仲だった」ということだ。ニールは未来からプロタゴニストの過去に来ており、未来でのプロタゴニストは、ニールにとってとても親しみのある人物で、とても尊敬していたから、はじめて会った時にとても緊張していた。自分の尊敬していて、好きな人の過去に行くのだ。自分の正体についてはばれてはいけないと思うし、でももっといろんなことを話したくてうずうずしている。そして同時にニールが「プロタゴニストにとってのこれが自分との出会いだった」ということに気づいているシーンなのである。胸が熱くなる。

 

 

カーチェイスのシーンや、レッドとブルーに分かれての戦闘シーンなど、アクションとしてワクワクするシーンもたくさんあるのだけれど、最後にプロタゴニストとニールの話すシーンがやっぱり印象的だった。

 

 

ニールにとっては数年前に知り合った人で、プロタゴニストにとっては、これから出会い直す人物だということがわかるシーン。

 

「誰がお前を雇ったんだ?」

「まだ分からないかい?」

一拍置いてからの、

「君だよ」

 

という台詞も感動だったし、

「出発点で会おう。今君はその中間地点にいる」

という言葉にも胸を打たれた。

 

『TENET』は、映画の技術とか、物理的な事象とか、そういうことばかりに目を向けられがちだけど、私は運命(あるいは現実と言うこともできる)を信条に生きている人たちの時を超えた壮大な友情の話だったんだと、思ってしまうのである。

 

ちょっとワクワクしませんか?

 

何も知らない現在の自分に、未来から未来の自分を知る人と、一つの任務に取り組む話。それは、この世界では誰にも目を留められない話で、なぜなら任務は達成されたから。未来をつくっているのは現在の自分たちなんだということがわかって、予定調和だったかもしれない未来を少しでも変えていこうとするという意志が未来の干渉によってわかる。

 

 

作中で時間について、

「テキストメッセージやクレジットカードという、未来とのやりとりはいろんな人がしている。未来から返事があるかどうか、が問題なのである」

と語られる。

 

もし未来の自分に何かメッセージを送られて、それが「人類を救え」ということだったら、現在の私だったらびっくりしてしまうけれど、未来と現在は干渉し合わない、ということになっているけれど、この作品――『TENET』を観たことで、未来が単純に予測変化不能だから現在を生きるしかない、という考え方から、未来というものが確実に存在し、未来で生き残っている自分から、現在を受け取るという発想がこの作品を鑑賞することによって私の中にも生まれた。タイムカプセルは未来からも送られるのだ。

 

しかし、この映画の底に流れている普遍的なことはある。

起きてしまったことは起きてしまったこと。

 

過去の自分も、未来の自分も、自分なんだと知りながら、私は未来にある危機を回避するためのミッションが、自分にも課されているのだと知ることができたのである。

 

でもやっぱり、ちょっとニールみたいな未来人と会ってみたい気もする。

友情の始まりについて描いた作品だったなあ。

 

読んだ:『〈沈黙〉の自伝的民族誌 サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』

「自分もことを記述する」という試み、文化人類学のみならず、歴史学ではイヴァン・ジャブロンカという人が『私にはいなかった祖父母の歴史』を書いているし、文学でも、アニー・エルノ-という小説家が近年ノーベル文学賞を受賞している。

 

この『〈沈黙〉の自伝的民族誌』では、著者がアイヌの祖母を持つ人で、「アイヌ/和人」という枠組みについて、「自分の存在が透明になったよう」と感じてきた。その透明さの感覚を原稿に起こし、学術的な理論も紹介しながら、「自分はサバルタンである」として自分のファミリー・ヒストリーについて書く、というのは画期的なことである。

 

文化人類学では「書く/書かれる」という優位性が問題になるからである。

 

書く主体/書かれる主体について、卒論でとても悩んだ。私がフィールドワークの対象者としたのは「イスラーム教徒の女性」だったけれど、私が「書く」というのは人の声の代筆のような気もしてしまい、本来であったら対象者とされる人たちがもっと自身の声を上げるべきなんだ、そうでないとずっとマイノリティのままになってしまう、と思っていた。

 

だから、「表象される」アイヌにあてはまろうとするのも違うと感じるし、だからといって、両親や祖父母また、その親の家族の歴史から、自分が「和人」として生きられるようにしてきた、「アイヌ」と「和人」との間で表象されることがない、という状況に苦しんできた、ということは「確実にあることなのに、なかったことにされている」ことで、その状況をずっと受け入れていいのか、という眼差しから立ち上がったものでもあったと思う。

 

余談だけど、『ゴールデンカムイ』が今映画化されてヒットしている。「伝統的な」アイヌの表象が受け入れられているのはいいことでもあるけれど、アイヌといえば「コタンに住んでいて衣装を身につけていて狩りが上手い人たち」といったイメージが固定されることはちょっと恐いなと思った。

 

アイヌは日本という歴史をつくるうえで「同化」を強いられてきた人たちだったし、「同化を強いられている」という記憶は共有されている。そこには「同化を強いた」人もいる。同化しなければ得られなかったもの(教育や職業、住むところ)もある。

 

著者が尊敬しているという太田好信さんの『トランスポジションの思想――文化人類学の再想像』について読みたいと思ったし、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』についてもそろそろ読みたいと思った。

好きなラジオ番組

ラジオ、とかテレビ、あんまり見ないのだが、パートナーがお笑い好きな人なので、ちょっとずつ聞いたり見たりするようになった。

 

最近、気に入ってポッドキャストで聴いているラジオ番組はJ-WAVEの『Just a little all lovin' living on the earth』。

長井優希乃さんの声が好きで、ゲストも永井玲衣さんが出たりとかしていて聴いていてすごく心地が良い‥!

長井さんは、中学校で教師をされているとのことで、「教員をしながらラジオのパーソナリティをしているのってすごいな……!」などと思っている。

 

まだまだ聴き始めたばかりなので、これからももっと好きになれるようになりたいな! と思っている。

プロトタイプ:code Dark

夜。

幼い私は店の方へ行った。

 

店の中には月で照らされた演歌歌手のポスターがあった。

私はその人を見つめる。

 

何の音もしなかった。

静かで雪が降っているみたいだった。

 

この夜に一人で写真として飾られているのはかわいそうだと思った。

でも写真の人は生きているみたいだった。

 

こういうことはお店で育った子にしかわからない。

プロトタイプ:code Flower

夜の中で赤く光るビルを見た時に

私は死んだ人のことを思い出して目を覚ました

 

テーブルには白いダリアが麗しく咲いている

それはホテルで起きた人の一生

 

ダイニングテーブルでしおれたピンクの花に目を留めた

誰かが人生を歌ったりしていたけど

花は美しいままで生命そのもののよう

 

いつか腐って溶けていく柘榴

遠い異国で重力から落ちた光

 

その光をとどめて永久に眠る石

 

白い輝き

 

ダリアは花嫁を思わせた

水に浮かんで静かに呼吸をしていた

 

空気は軽くて外には闇が広がっていた

夜の中でも美しいあなた

2024年1月振り返り

2024年の一ヵ月が終わる。

新年明けて「こんな月だったなぁ」という振り返りをしたい。

 

お正月、お参りに行って、その後大阪に向かった。

パートナーのご両親とランチして、関西空港から新千歳に帰るかという時に、羽田の事故のニュースを見た。

ちゃんと新千歳には帰れたが、移動疲れが残っていた。

 

北海道の神社にもお参りに行った。「無数の偶然の中から今の現在があることを忘れないでください」とあり、神様のことを考えた。

 

1月は調子を崩していた日が多かった気がする。

 

先週の日曜日は珍しく元気であり、スキーに行った。二十何年ぶりのスキーで、最初は全然身体が感覚を覚えてくれず、カニ歩きしかできなかった。一応、リフトには乗れて二回滑った。

 

ギタリストのライブにも行った。

この日はパートナーとの冷戦が勃発したので大変だった……。

 

人と暮らすのは、井戸掘りのようなものだなとしみじみ思う。

 

最近はコロナにかかり、体調が悪かった。その前もちょっとぐったりしていた気がする。とはいえ、グラタンを作ったり、寝るときはずっと寝ているなどして回復に努めた。

まあね、仕事をはじめて1ヵ月で、同棲をして二ヵ月で、慣れない土地にいるし、前にいた会社のことを思い出さないわけでもないし、新しい環境にもう「慣れている」「平気だ」と自分で思っていたとしても、知らずのうちに疲れがたまっていたのかもしれない。

 

オンラインスクールの授業をちょこっと受けた。

最近は何かと「デザイン」について触れる機会があって、何かの情報整理をしたりなどにも興味を持っている。

 

本を読んだ。

現代短歌の本と、オートエスノグラフィーの本を読んだ。地名に関する梨木香歩さんのエッセイなども読んだ。時々カポーティを読み、先住民に関する本なども読んでいた。

本を読むことで自分の内面を救っている気がする。

 

ドラマ『光る君へ』を毎週欠かさず観るようにしている。

源氏物語』も今年こそ読みたいと思った。

 

う~ん 総じてぐったりしていた日が多かったな。

体調、回復しますように。

読んだ:『先住民からみる現代世界 わたしたちの〈あたりまえ〉に挑む』

北海道にいる、ということで、お正月に『ゴールデンカムイ』をパートナーと大人買いして読んだ。アイヌの文化を垣間見たり、国家共同体をつくる上での思惑、を描いたりしてあってとても興味深かったのだけれども、北海道博物館にあった「アイヌ」の表象の仕方はまたちょっと違ったな? などと思い、石原真衣さんの『〈沈黙〉の自伝的民族誌』と同時並行で、文化人類学者や社会学者のアンソロジー?(論考?)として『先住民からみる現代世界』も読んでいたのだった。

 

ゴールデンカムイ』でも『先住民~』でも、主に土地と民族の問題を取り上げていて、「先住民というその土地にまず住んでいた人たちがいるのに、それを国家が吸収して権利を追いやってけしからん!」みたいな論調が多いな~と思っていた。マジョリティ対マイノリティの話に収斂するのではなく、「では一緒に生きていくためにはどういうことをしていけばいいのか?」ということが私の関心であったので、『先住民からみる現代世界』の先住民サイドのケースとして多く見られた「国連に訴え出る」というのは、国家以上のグローバルアクターとしての「国連」に解決を求める、という意味では正当ではあるけれど、「国連」という大きい組織での場での発言のみで、国連が「あなた方の主張はわかりました。政策提言を世界規模でしていきましょう」と言い、各国に伝えていくというやり方では、現実的に学校に通えない、とか文化と組織の中で取り残されている人たちがいる、みたいな問題は実践的には解決できないのではないか、と思ってしまった。位置づけとしては実践できない分を国際NGOなど第3セクターが担う、ということになるのだろうけど、それでは「多文化共生」は実現できていない気がして、やはりイスラーム教徒とキリスト教徒の共生を政治的に融和しようとしていた「オスマン帝国」に理想を抱いてしまうのだった。(まあ、オスマンにもいろんな課題などはあったのでしょうが、パクス・オトマニカがどんなものだったのかはちゃんと本を読んでもいいなと思いました)。

 

私自身が定住をしないがちな人間であることから、「土地と定住と民族に全て問題が向かってしまうのだろうか……」と思っていたら、第10章でカラハリの遊牧民の話が出てきて、「先住民は全て定住する者であり、土地を持とうとするものである」という偏見? が法廷的な見解としてでていることに、実際の生活文化と合致していなかったので余計に分断されてしまった、というお話があり、興味深かったです。移動する遊牧民にとっての地図化のプロジェクト、ということも建設的なプロジェクトに思えて、「土地」に関する感覚と考え方について、もう少し深めてみたいと思いました。(松村圭一郎さんの『所有と分配の人類学』を読んでみたいと思いました)。

 

石原真衣さんのオートエスノグラフィーが「アイヌなのか和人なのか、そのあいまいがあってもいいんじゃないか」というアイデンティティーのお話であるのに対して、このアンソロジー(論考集?)では、「民族が結びついている土地」というテーマが主だった気がします。

 

去年読んだ高野さやかさんという方の「法人類学」に関する論考:『「法の生成」の人類学に向けて』で、確か実際にコンフリクトが起きた時に、アクター間でどのように制度をつくっていくか、というお話があったのですが、その要素が加わっても面白かったのかな、と思いました。つまり、先住民(または少数民族)と行政の実際の制度のすり合わせの過程についても知りたいと思いました。たとえばマオリでは、先住民のプレゼンスがとても高いという話を聞いたことがあるのですが、(また、コラムで海でとれる海産物や、海をどれくらいの範囲で優先されるかという話が書かれていましたが)、何かの宣言だけでなく、実際的な行政の活動と先住民の権利がどのように協調しているかなどにも興味が湧きました。

 

あと書き方について、学術的な文章の書き方が私にはあまりしみこんでいないのですが、どのように書けばわかりやすくなるか、ということについてもいろんな人の文章があったので、どこまで細かいことを書くか、やどのように整理されていれば、理解が早くなるか(読み手に親切になるか)なども参考にしたいです。

 

個人的には木村真希子先生の文章が、とてもわかりやすかったです。ただ、どのように書いているからわかりやすいと思えたのか、という分析まではまだなので、もう一回読み直してみようと思います。

 

今日はパートナーにお使いをお願いしていて、いくつか気になる本を挙げて、買ってきてもらうように頼んでいるのですが、リストアップをしていく中で、意外と文化人類学の本で読んでみたい本が多いなということに気づきました。理論と実践的なフィールドワークの本(博論改稿含む)の両方をもっと読んでみて、物の見方の幅を広げてみたり、文化人類学的な考え方の視点のようなものを、感覚でいいので掴んでいきたいです。