はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『屍人荘の殺人』

今村昌弘、(2019)、『屍人荘の殺人』、東京創元社

 

を読んだ。

 

ndlsearch.ndl.go.jp

 

たまにミステリを読みたい!!! となる。

私の中では大学生の時に何気なく買って読んだ、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』を超えるものがなく、(この作品が好みである時点で私はミステリに物語を求めているのかもしれない)、たまにミステリを読んでは首をひねっている。

 

『屍人荘の殺人』は一見読んだ時に、『ひぐらしのなく頃に』みたいだなーと思った。『ひぐらしのなく頃に』はミステリと見せかけてタイムループモノでした、というオチだけど、『屍人荘の殺人』はエンタメとミステリが両立している。つまり誰かが仕組んだことを、誰かが解き明かしていく、という体がとられていて、そこにさらに発生していた状況が見事に絡み合って行くのである。

 

ここで(最近発売された)E・M・フォースターの本からミステリーについて考えてみよう。

 

フォースター曰く、

①「王が死に、それから女王は死んだ」はストーリーである。人はこのあと「それから?」と尋ねる。

 

続いて、

②「王が死に、悲しみのあまり女王が死んだ」はプロットである。人はこのあと「なぜ?」と問いかける。

 

最後に、

③「女王が死んだ。その理由を知る者は誰もいなかったが、やがてそれは王の死に対する悲しみのゆえだとわかった」は「ミステリーを含んだプロット」であるという。

 

私見だけれど、「ミステリーを含んだプロット」の「ミステリー」たる部分は、「その理由を知る者は誰もいなかったが、やがて」それは王の死に対する悲しみの「ゆえ」だと「わかった」によるのだと考えている。

時間の経過と因果関係が説明され、誰かによって(or何かに寄ってorどうやってか)によるものなかが明らかにされることによって成立するのがミステリーなのではないかと私は考えている。

そういう意味ではミステリーというのは電車のようなものだ。発車する時刻があって、終点がある。一度はじまったら明らかになるまで終わらない。円滑にすべてのロジックが運ばれていなければならない。

 

ミステリーが好きな人は得てして、そのような物事を構築してその要素を分解し、その分解したパーツを組み立てて再構築できるかどうかを検証するのが好きな人たちなのではないかと思う。

 

パートナーに「そんなのは本質ではない」と言われたけれど、私が『屍人荘の殺人』を読んで気になったのはその特殊環境下である。作中でも言及されているけれど、その気になる特殊環境は特殊環境であったがゆえにミステリーを成り立たせた。それがなんだかもやつくのである。

 

特殊環境の中で殺人事件なんて起こってしまってはいけないのではないか? と思う。そして過去に、語り手は特殊環境の中での犯罪に強い怒りを抱いている。強い怒りを抱いていた中で、再び特殊な環境に置かれた時、いくらミステリ好きだからと言って、誰がなぜどうやって殺されたかよりも、どのように生きるかを考える方が自然なのではないかと思うのだ。

 

そんなことを言ったらどのようなミステリーも成立しないだろう、という人がいるのかもしれない。けれど、私はミステリーを成り立たせているフィクションの人物も人間であって、その人間性が見えてこないミステリーはミステリー「小説」ではないのではないかと言える。

 

小説を読みたい方にはアガサ・クリスティーを勧めるのですが、ミステリーについてもっと突き詰めて考えていくとなると、『オイディプス王』と能の『蝉丸』ではないのかなと思いました。

 

この二つはミステリーを考える上での私の課題図書としたいところです。

 

(参考文献)

E.M.フォースター、(2024)、『小説の諸相』、中野康二訳、中央公論新社

廣野由美子、(2009)、『ミステリーの人間学 ――英国古典探偵小説を読む』、岩波書店