角田光代さんのエッセイや書評が好きである。小説は読まない。『対岸の彼女』とか『八日目の蝉』とか、『空中庭園』とか、『平凡』とか『くまちゃん』とか読んだような気がするけど、読むたびにそこはかとないどん詰まり感があるような気がして、なるべくなら小説は読まないようにしている。
でも角田さんの書いている文章は生きていて、活躍されている人の文章の中では誰よりも活き活きとしているような感じがするし、「旅行」とか「シェアハウス」とか「読書」とか「お酒」というような角田さんの愛したものを私も愛しているので、いつか角田さんに会ってみたいなーと思いつつ、角田さんの書いた文を読む。
そもそも、私が角田光代さんを知ったのは、夏休みの読書キャンペーンの一環で「本の感想を募集しています」というような告知文で知ったのである。
「面白かった」だけが読書ではない、
と角田さんは書いていた。
曰く気持ち悪かった、とか、世の中の不条理を書いたようなものだったりとか、何か違和感があるような読書体験、それもまた読書体験なのである、
というような趣旨のことが書かれていたのである。
たぶん当時小学生くらいの私は「なんで~?」と思っていた。「面白い」から、この人は本を読んでいるわけではないの? 読書は「面白い」とか「スカッとした」という体験は違うの? そうじゃない本は、読んでいて面白いの?
などなど。
でも、『夏と花火と私の死体』(乙一)とか、『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫)とか、『異邦人』(カミュ)とか、『変身』(カフカ)とか、『妊娠カレンダー』(小川洋子)とか『グレート・ギャッツビー』(フィッツジェラルド)とかを読んできて、私にもだんだん読書体験というものが、単に「面白かった」ではとどまらない、たとえていうなら、それはどこまでも続く海のような、どこまでも続いて潜ろうと思うと深く潜れてしまう海のような、何をも飲み込んでしまう怖さと包容さをもっているのが読書なのである、ということをなんとなく、高校生くらいの時にはわかってきたような気がする。
でも、
でもやっぱり人生には暗がりばかりではあってほしくないし、つかの間の希望でもあってほしくないんだよな、と思ってしまう。
角田さんが読んできた膨大な数々の本と、それにまつわる書評を読んで思う。
世の中には、わくわくすることがあるはずで、それ自体が光を放つようなまぶしい出来事もきっときっといっぱいあるはずなんだ、と思ってしまう。
あっといわせる展開や、びっくりすることや、不思議なことや、まぶしくてまぶしくてそれを誰かに伝えたい、ということもあるはずなんだと思う。
たとえば、旅先から届いた大小さまざまな、それぞれが太陽の光を浴びて育った、美しく輝く果物のように。
人生が思い通りにいかなくなるような、そういうひっちゃかめっちゃかさもある意味ではブンガクの楽しみなのかもしれないけれど、気持ちよく楽しく毎日を過ごせるための、洗い立ての洗濯物を青空の中で干したような、そういう小説がもっともっと世の中にいっぱいあってもいいと思うな、という書評集であった。