はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

カタルシスを得たい時の言葉・5選

私は本が大好きで大好きで、あちらに川端康成の『眠れる美女』があれば読み、こちらに角田光代のエッセイがあれば読み、そちらにまた網野義彦があれば読む。

自分の読み方のタイプはどちらかというと乱読タイプだと思っており、学校においては自分より本を読む人はいないと鼻にかけていたのであるが、いるのです、ネットの社会には、博士号をとったりする人が。

一方、「あれ? この人の本の感想からはにおいがしないな?」という人もいます。

周りなどみて比べる必要などない! ひとまず、読書! 孤独に読書していき、孤独に書いて邁進するのみ!!

と熱く鼓舞する自分もいるのですが、このようにあたりを見渡してルサンチマンに陥ることもあります。

 

ルサンチマンに陥った時、どのように対処したらよいのでしょうか?

 

「文学にカタルシスなど求めるな」という声もありそうですが、先の読書オートエスノグラフィーで「癒すために本を読んでほしい」というようなことを言いました。

今回は私が「カタルシスを得られた」とビタミン剤のように摂取できた美文を紹介したいと思います!

 

川端康成、『眠れる美女』より

椿は花が首からぽとりと落ちて縁起が悪いともされているが、椿寺のは樹齢が四百年と言う一本の大木から五色の花が咲きまじり、その八重の花は一輪がいちどきに落ちないで、花びらを散らかすから散り椿とも名づけられているらしかった。*1

 

川端康成先生の美しい文章にふれると心があらわれていきますね~。

眠れる美女』は、眠っている女の子のいる宿に江口という老人が訪れ、ひたすら娘のことを描写し、時に女性のことで思い出したことが回想される、という小説です。妖しい小説ですね。引用した文章は、江口老人が可愛がっていた末娘と一緒に椿を見に行った時のことを描写しています。一輪落ちる椿も、それがたくさんだと人の目を惹きこんでいく世界となるのですね。江口が末娘に見せたものは、「椿」そのものというよりも、女の情念のようなものが宿っている世界なのではないか、と思ったりするとそのたくさんの椿の散り様を想像し、魅了されるだけで心のカタルシスが得られます。

 

ジュンパ・ラヒリ、『停電の夜に』より『病気の通訳』

 

このブラシを出したはずみに、さっきカパーシーが住所を書いた紙切れが風に飛んでいった。そんなことを気に留めたのはカパーシーだけである。見る間に舞い上がり、風に乗って、高く、木の枝にまぎれていった。そこでは樹上にもどったサルどもが、下の光景におごそかな観察の眼を向けていた。カパーシーも見ていた。*2

ジュンパ・ラヒリの小説はほんとうに読んでいて、一瞬のかなしみを切り取って写真に収めるみたいな書き方をされる方だと感じる。この文章のどこにカタルシスを感じるかと言うと、紙切れが風に飛んでいく、その映像的な動きにさびしさと空虚さを感じっるのだ。少し仲良くなった、心の内を知って永遠を感じたと思ったのに、そのはかなき一瞬でその人が他人に戻る感じ。心に残るこの空白とでも呼ぶべきものに、カタルシスが残るのでした。

 

 

アリス・マンロー、『ジュリエット』より『沈黙』

 

「わたしの娘は、さようならも言わずに行ってしまったんだけど、じつのところ、あのときは娘も自分が行ってしまうことをわかっていなかったんだわ。そのまま行きっぱなしになるとは知らなかったのよ。」*3

 

娘と別れることになり、どこか娘の面影を探していたお母さんのセリフ。彼女には彼女なりの人生があり、娘が彼女の中でも大事なつながりだったのだが、娘は突然姿をくらましてしまう。けれどもお母さんはいなくなってしまった娘のことを忘れることができない。そのお母さんが、愛情をこめて「存在していない」娘にむかって言う言葉。この台詞を読むと、自分が何かの冒険という物を――人生というものについて、ちゃんと歩んでいると勇気づけられるようだ。さよならが言えないことへのカタルシスがある。

 

武田百合子『ことばの食卓』より『花の下』

 

さっぱりとした花ですね、ここのお社の桜は。お天気がいいと、こうやって腰かけていて仰向けば、花が浮いて、その奥に青い空があって、眩しいくらいきれいなんだけど。今日は冷えること。*4

 

書き出しが美しくてカタルシスを得られる文である。花見をしていた時に声をかけられたりしたのだろうか。状況は想像するしかないけれど、でもその言葉の端々から、日常の中にも――たとえぱっとしない曇り空の日でも――美というのは身の回りにある自然や記憶から見出すことができるのだとわかる。こういう文を読むとそれだけで胸がすっとする。

 

網野善彦、『無縁・公界・楽』より「エンガチョ」

 

さきにものべたように、「エンガチョ」をつけられた人間は「鬼ごっこ」の鬼と同じといってもよい。それ故、「エンガチョ」はある「魔力」であることは事実であり、鶴見氏がいうように、「汚さ」の魔力であるとともに、その全く対極の「きれいさ」の魔力でもありうる。*5

 

年初にあげた Fair is Foul, Foul is Fair を表してくれた文が網野先生から引用してみました。カタルシスを得ようとするとき、私たちは何か絶対的なものを求めます。絶望的な状況からの絶対的な勝利。これ以上ないくらいの癒し。この「勝利」や「癒し」は混沌とした状況から生まれ、その混沌は「穢れ」の世界である。しかし、それを逆転する何かを混沌とした状況でも探し出すことができるはずだ。カタルシスというものは簡単に得られるものではないけれど、だからこそ、私たちはその苦しみに意味を見出すことができるはずなのである。きれいはきたない。きたないはきれい。

 

*1:川端康成、『眠れる美女』、新潮社、1967年、p.58

*2:ジュンパ・ラヒリ、小高高義 訳、『停電の夜に』より「病気の通訳」、p.113、新潮社、2003年

*3:アリス・マンロー、小竹由美子 訳、『

ジュリエット』より『沈黙』、p.206、新潮社、2016年

*4:武田百合子、『ことばの食卓』より『花の下』、p.67、筑摩書房、1991年

*5:網野善彦、『無縁・公界・楽』より「エンガチョ」、p.15、平凡社、1996年