はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

「読書」に関するオートエスノグラフィー

同学年の人たちが博士課程を修了する年になりました、はちみつです。

暇なので、「読書」をテーマに自分にインタビューした記事を書いてみます。

 

――どんな子ども時代を送りましたか?

 

私は、幼稚園の頃から砂場でどろんこになって遊ぶよりも、一人教室で絵本を読んでいるのが好きな子どもでした。

小学生になってもそれは変わらず、7歳の頃は「宮沢賢治」とか「アンデルセン」とか「野口英世」とか「キュリー夫人」とかの子供向け伝記を読むのが好きでした。

9歳の頃に、『ハリー・ポッター』シリーズにハマりまして、私は「物語の世界」がとても好きになりました。

ごくまれに舞台鑑賞などもしまして、アレックス・シアラーの『13ヵ月と13週と13日の満月の夜』を見たり、劇団四季の『オペラ座の怪人』を観たりしていました。

12歳になると学校でもいよいよ孤立しはじめるのですが、私には「物語」という世界がありました。

その後中学受験に落ちまして、地元の公立中学校に通い始め、部活と勉強で忙しい時間を過ごすようになるのですが、本はずっと好きでした。

 

――思春期の頃はどんな本を?

 

この頃には伊坂幸太郎小川洋子などを読み始め、(全く逆のタイプの小説家ですが)、流行りの小説家などを追いかける楽しい時期を過ごしました。

中学後半にうつ病になりまして、高校受験で地元の進学校に行くことを諦めました。

うつの時でも心のよりどころになったのがやはり本を読むことでして、中学3年生の頃に『アルジャーノンに花束を』を読んで主人公にとても共感しました。

私にとって楽しかった勉強やピアノや読書ができなくなっていくことと、『アルジャーノンに花束を』の主人公・パーシーの衰弱ぶりが重なって見えたんだと思います。

昔の作品では芥川龍之介宮沢賢治などを読みました。

15歳から16歳からにかけては、村上春樹をひたすら読んでいて、自分が失ったものをゆっくり取り戻していくようでした。『ノルウェイの森』について、特に10回ほど読みました。

作家としては、他に小川洋子さんが好きだったので、小川さんのエッセイを読んだりして読むものを広げていきました。

読書の対象としては圧倒的に小説が多かったですね。

でも中学生の時は、教科としては国語よりも、数学や理科の証明の授業が好きだったんです。英語はつまらないと思っていましたし、社会も覚えるだけだと思っていました。

でもその時のうつで――集中力を失ってしまいましたし、何かに「取り組む」ということが難しくなってしまったんです。だから今も、数学や理科はわからないままです。好きだったことや得意だったことが喪失されるという経験は、結構辛いものでした。

私はこれを「喪失」と呼んでいます。私の一部は失われてしまったのだと。

 

――多感な中学生だったんですね。

 

失ったら得るものがあるはずだ、ということを常々意識しようとしました。

私が得たのは誰にも理解されないという「孤独」でした。この孤独を癒すために、私は本を読んでいたのだと思います。ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を読んだり、V.E.フランクルの『夜と霧』を読んだり――。TSUTAYAでDVDを借りて、映画もいっぱい観るようになりました。『ティムバートンのコープスブライド』とかアニメーション作品も観ました。文学でも海外文学をもっと読むようになって『オリバー・ツイスト』とか『グレイト・ギャッツビー』を読みました。

私が高校生の頃は、「海外古典文学の再評価」みたいなことがたぶんされていて、たとえばヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』のミュージカル映画が公開されたり、『グレイト・ギャッツビー』もレオナルド・ディカプリオ主演で映画化されたりして、西洋文化に親しみやすかったんですよね。

 

――ですが、大学では文学部には進学されなかったんですよね。

 

そうなんです。早稲田のオープン・キャンパスに一人で行ったんですけど、「文学部に進学しても孤独が続きそうだ」と思って、文学部よりも、もっと幅広いことができる学科に進学したいと思いました。「小説は一人で読んでいればいいか」と(笑)。

もったいないことをしたとも思いますが、国際関係学科に進学したことを後悔したことはありません。

 

――大学ではどのようなものを読まれたんですか?

 

フランス文学が多かったですね。バルザックの『ゴリオ爺さん』とか、モーパッサンの『女の一生』とか。アゴタ・クリストフの『悪童日記』も人に勧められて読みました。女性作家だと、マルグリット・ユルスナールとか、デュラスとかも読みました。

国際関係学科に進学しましたけど、結局読むことが多かったのは小説でした。社会学の本とか、新書とかは少しずつ読むようになりましたけど……。

 

――社会学や新書には興味を持てなかった?

 

「興味がない」というわけではないですが、やはり自分の中には「物語」が軸としてあったんだと思います。なので、社会学とかの理論とか、定量的な調査よりも、質的な研究に興味が向きました。新書で読んで面白かったのは中公新書の『バルカンの歴史』と『ギリシアの歴史』でしたね。歴史学のゼミにも入っていたのですが、「高校で学ぶ歴史とはずいぶん違うな」と思うようになりました。ただ、他の言語に精通する必要があったので、そういう意味では高い壁を感じていました。私は語学勉強よりも、旅行に行ったり、農業系のサークルに入ったり、深夜まで寮生ととりとめもなく話していることが好きでした。

 

――卒論では結局、イスラームをテーマにされましたね。

 

もともとキリスト教文化圏に憧れていたところがあったんですけど、その歴史学のゼミで扱っていたのが『オスマン帝国の中のキリスト教徒』だったんですよね。そのうちに、だんだんイスラームという文化圏の物事の決め方の方が面白く感じられてしまいまして。また、今までの自分の物の見方が「西洋中心」「キリスト教的」になってしまっている、ということにも気づいたんだと思います。最近読書傾向がイギリス文学などになってきているので、「これではいかん!」と今は『源氏物語』を読んでいます。今年の目標は『源氏物語』読破ですね。その後はオルハン・パムクを読もうと思っています。

 

――今後どういう方向性で読書をされたいですか?

 

話していて思ったんですが、「西洋的な物の見方だけではだめだ!」と気が付いたこと自体は悪くないと思うのですが、それからどう脱却するかということが、今後の課題かなと思いました。そういう意味で、たとえばイギリス文学をとことん突き詰める、というような方はやはり羨ましく感じられます……。きっと自分の中で何かを突き詰めていくということに怖さがあるのですね。とすると、「読む」というインプットだけでなく、「書く」というアウトプットの時期に移行しているんじゃないかという気がしてきました。これまでも自分がもっと「書ける」ようになるために読書をしたいと思っていたのですが、今後はもう一段深く……たとえば、構成や何かの象徴に気づけるような読書の仕方をしたいと思います。

 

――「読書」をされない方に、メッセージをお願いします。

 

「読書」と聞いて敷居が高いと感じますか? 自分には必要ないものだと思いますか?

確かに、実生活を生きるという点では、読書というものはどこか浮き世離れしているイメージがつきまとうかもしれません。

私も「なぜあなたはそんなに読書というものに対してそうも真剣になれるのだ」と訊かれたらわかりません。上手く料理ができたり、会社で高い評価を得られるようにすることの方がよいのかもしれない、と何度も思いました。

でも、本を読むと言うことは自分の心を癒す行為でもあるのです。「ヘンだな」とか「なんでこんな理不尽な思いをしなくてはいけないのだろう」とか「孤独だな」とか「何かうまくいかなくて困っているな」という時に本を読んでいると、――「読む」という受動的なことをしているにもかかわらず――、自分が引き出されていくという感覚があります。

最近はSNSやハウツー本であふれており、どんな情報も手に入れやすくなっておりますが――何かを手に入れるための読書ではなく、自分を癒せる読書を、世の人にしてほしいな、と思います。

読書はどこまでも孤独ですが、自分を深くする行為でもあります。自分を深くしてみる人がもっともっと増えれば、私たちはもっと豊かに人生を送り、誰かのために祈ることができるのではないかと思うのです。

 

――はちみつさん、今日はありがとうございました。