はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

「純文学」V.S.「エンタメ」

エンタメが好きです、という人に「純文学が好きです。海外古典も好きです」と言うと、その後の会話が途絶える。

実は私だって純文学が何かよくわかっていないので、ここで整理をしてみようと思う。

 

最近、「カズオ・イシグロの小説がなぜ読まれるようになったかと言うと、昔の小説は思想を文学として成り立たせることができたが、いまやそのような小説はありふれており、だからこそエンタメの要素が必要になってくるのだけれど、そういうひねりの利いた小説は生まれてこないから自分が受けたのだのだと、何かのインタビューで本人が言っていた」という話を聞いて、ふーん、と思った。

 

その人はエンタメとかミステリが好きな人で、一方「好きな作家? 芥川とかモーパッサンとか武田百合子とかジュンパ・ラヒリですね!」と喜々として答えるような人間だから、エンタメ好きの観点はよくわからない、と思っていた。

 

しかし、自分はエンタメ寄りの人間ではない、とわかっていても、自分が「純文学好き」なのか? と言われると微妙である。

何年か前に、就職活動をしていた時、出版社の選考で「純文学が好きなようですが、エンタメは読みますか?」という質問を受けた。

答えに詰まってしまった。

そもそも純文学ってなんですか、という問いに自分が答えられないのと、エンタメと純文学をどうとらえているのか、ということに私自身が整理をつけられていないことがわかってしまったからである。

その選考は案の定落ちた。

でも、と思う。

私は純文学をエンタメとして読んでいるので、世にあるエンタメにはあんまり興味がないんです!!

とは、やっぱり言えなかったよなあ、と。

 

たとえば角田光代さんは直木賞作家だし、「エンタメ」のジャンルで活躍されているけれど、角田さんは「書きたい」が先行していて、書いて読まれる先が少女小説しかなかったから、少女小説を書いていたわけである。あの角田光代さんだって、最初はエンタメとしての小説からの出発だったのだ。

 

純文学、なんてたいそうな名前がついているけれど、私は文学に純も亜もないと思っている。なんとなくGoogle先生に訊くと純文学とは芸術性の高い文学作品であり…とか、大衆作品とは違い…みたいなことが書かれているけれど、文学ってつまり「人の会話とか考えとか行動様式を何かのテーマに織り込んだ書かれたもの」というものではないかと思うのだ。

それに読者がついてくるのは時代の流れだったり、ハイカルチャー層にいる人たちがこれはいいよね、と言い合って内輪だったものが広まっていくという、要するに運と縁の世界の話なのだと思っている。

(たとえばヴァージニア・ウルフだってブルームズベリーにいなかったら『意識の流れ』とか『ポストモダン』という文脈では語られる人物にはならなかったと思う。時代性については斎藤美奈子の『日本の同時代小説』を参照されたし。)

 

だから純文学とかエンタメとか区別するのがそもそもナンセンスな話だと思っている。

それは私が「人に受けよう」と思っていると、自分のテーマが失われてしまう、と根本的なところで思ってるから、かもしれない。

 

しかし――

やはりこの間観た、『True Act 2023』の公演で観た、「お客さんを感動させよう」と思って技巧をこらす、というパフォーマンスには感心してしまった。

またやはりこの間観た、東京03の『謝らない日』というコント(? 演劇?)にも感動してしまった。

今までエンタメというと、やはり何か、自分のためではないことをしようとしている、誰かに受けようとしている、というところがネックだったのだが、誰かを笑わせたいとか感動させたい、とかいうことと技術を磨くということは大事なことなんだなと思った。

 

というわけで、私は自分のテーマを探りつつ、技術も磨いて、ちょっと笑えるような話を書けるようになりたいと思うのであった。