はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

MOMOTARO GIRL

”Momotaro Girl”とは、大学生の時に、英語の先生からもらったあだ名である。当時の私は宮本常一の話が好きで、『千と千尋の神隠し』のことも大好きだったから、民俗学のことをやりたい、など自己紹介をした時に、英語の先生からその名前で呼ばれるようになった。

 

国籍はどこだったかわからない。アメリカ人だったと思う。一度だけ思い出を語ってくれて、「僕の恩師はクロアチアの戦争で、イスラーム系に家族を殺されたという話を聞いたことがあるよ」と穏やかな口調で話した。

相対主義って考えがある、と授業で発言した時に、「君、相対主義って説明できる?」など。その授業はプレゼンの授業で、何事か一生懸命話した後に、「素晴らしい発表だったよ!」と言って出席回数の割にいい評価をくれた。なんだか妙に思い出に残る先生だ。英語講師として授業をしていた先生なので、よくは知らないのだが、同級生曰く、

「あの先生、講師だけど世界的な論文を出している有名な先生なんだよ」とのことだった。先生の名前はおぼろげだ。

 

北海道に来て、『千と千尋の神隠し』のサウンドトラックCDを聴いていたら、なんだか、「『千と千尋の神隠し』ってなんか北海道の雰囲気と違うな。本州が舞台なのか?」という気持ちになった。

 

まず、「八百万の神々」って、どんな風に感じることができるんだろう?

私は「八百万はね、たくさんって意味なんだよ」と国文学科出身の母に聞かされ、「たくさんいる神様ってことなのかー」などと思いながら、映画を観ていた。そのうち、「おしらさま」信仰は東北に多いことや、国立民族学博物館の展示でたくさんの「おしらさま」をみて、それが異類婚譚につながっていることなどに思いを馳せた。最近読んだ新書で「釜爺」も東北のお話に関係していると読んだことがある気がする。

 

そんな風に民俗学への興味で映画を眺めていたわけだが、この作品はドイツの童話作家、オトフリート=プロイスラーの『クラバート』という作品に影響を受けたものだと、宮崎駿が何かのインタビューで語っていたのを見て、今年、その『クラバート』をやっと読んだ。

 

『クラバート』との類似点は確かになくはないのだけど、(「名前」のくだりとか)、なんでこんなに『千と千尋の神隠し』が人に好まれるのだろう、と思った時に、「アジア的」だからなのかなぁ、なんて思ったりした。

 

最初に引越しをするシーンで「石の祠」なるものが大量に捨ててあったり、草が生い茂る川を渡らなくてはいけなかったり、何より「温泉旅館」というイメージが「内地」っぽさを出しているのではないか、と思う。私の出身は北関東だが、北関東にはモデルになったという温泉地がいくつかあって、確かにその風情に建物が似ているし、迷い込むまでの「普通」の道路も北関東の「北」っぽさが似ている、と思った。

 

湯屋のお布団がたくさん敷かれているところとかも、そこを出て花の咲く垣根を出て畑に出るシーンも、なんだか古きよき「田舎」を思い出してしまうのだった。

 

でも何より、この物語が人に影響するのは、物語自体が「集合的無意識」を刺激するものだからではないだろうか、と思った。「集合的無意識」とはユングが提唱した概念で、ざっくり言うと、人間の無意識の深層に共通して存在する意識、のことだ。

 

「神さまが私たちのまわりにいるよね、それって自然と通じているものだよね」という発想は、日本の本州を中心とする宗教的な感覚に基づくものではないかと思うのだ。

 

この、「日本の本州を中心とする宗教的な感覚」は他に類例がないか、ということを考えた時に、梨木香歩のエッセイ、『風と双眼鏡、膝掛毛布』(筑摩書房、2020年)が役立った。各地の神話や出来事について、その土地の言い伝えや風土記を読みつつエッセイとして盛り込む、という文章で、その土地にしかいない神さまのことが書かれていて、「八百万の神様」に少し近づいた気がした。

 

しかし、『千と千尋の神隠し』で描かれる神様がメジャーどころではない、というと語弊がありそうだけど、京都の「上賀茂神社」に行った時に、「こういう神社の神さまではなさそう」と思った。もっと土地に根付いた神さまがたくさん描かれているという気がした。そういう意味でも、人気を集めやすいのではなかろうか、と思う。

 

千と千尋の神隠し』はある新書によると、『TENET』に似た作品だと言う。なんでもありで、何が起こるかわからないのがうまくいくのが『TENET』に似ているのだそうだ。英文学畑の人の論文で、この作品は広く「タイム・ファンタジー」もの、という分析もある。

 

それなんだけど、それだけでは、この作品から感じてしまう「ノスタルジー」はなんなんだ、と思う。この「ノスタルジー」は「想像の共同体」をつくっているものなのか、「集合的無意識」に近いものなのか、まだよくわかっていない。

 

MOMOTAROは正義と悪というものが明確に分かれた物語である。しかし『千と千尋の神隠し』には明確に悪というものは存在せず、ひたすらカオナシも「孤独」の象徴として出てくるばかりで、彼(?)も最後には居場所を見つけることができる。

 

MOMOTARO GIRLというあだ名をつけてもらって恐縮なのだけれども、まだ私はやはり、この物語をまとめあげたり、批評したりということができないでいる。

 

いや、北海道にいると、『千と千尋の神隠し』ってだいぶ奇妙な物語だなと感じてはしまうのだけれども。