今日は大学の授業の聴講に行っていました。「語ること」「語られないこと」の間、「沈黙」と「証言」に関するお話と、セクシュアリティのお話を聞いてきて、家に帰宅して本を読むと、『捕食』という項目が出てきました。
”すなわち、アマゾニア的捕食とは、自らを規定するのに不可欠である他性そのものとの関係性であり、他者なき世界を志向することはない。”*1
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結婚することが決まり、式場などを探し、結納をするかしないかで迷い、入籍と挙式までにやることリストなどをリストアップしているのですが、『はじめての構造主義』や『クラバート』で読んだように、「婚姻」とは何を意味するのか、ということを考えていました。
同時に、自分の苗字が変わるということや、パートナーその人と一生を誓うということがどういうことであるか、自分というものはなくなってしまうのか、などについて不安もまじりつつ、私自身はおめでたい気持ちになっていました。
なぜこんなにおめでたい気持ちでいるんだろう。
なんといってもいろんな人が(時に観客としてその場に居合わせてくれただけの人が)おめでとうございます、と言ってくれます。
となると、存在の認知が今まで一人と一人だけであったのが、そこにいる二人(たとえ姿は見えなくてももう一人)に対しても行われるようになり、私とパートナーはあらゆる関係性の人たちから「二人」として認識されるようになったのです。
「婚姻」とは、ただ一人で接続していた世界から、二人で世界に接続すること、その基盤を二人でつくること、この基盤というものが、歴史的に多くの人たち同士で行われていたことなのだとわかり、私とパートナーも、その大きな環の中に迎えてもらったような気持ちです。
私とパートナーはもともと他人で、それぞれ違う場所で育ちました。一緒にエチオピア料理を食べて、日本酒を飲み、映画を観て、旅行に行き、喧嘩もして、仲直りして、一緒の家に住むことになり、相手が病気の時はもう一方を看病し、自分が病気の時は相手に看病をしてもらい、友人夫妻が訪ねてくれ、徐々に徐々に相手の大切だと思っている者が自分の大切なものにもなっていったなぁ、と感じます。
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私たちはお互いを「捕食」しあっているのだろうか? と引用した一文を見て思いました。確かにそれはアマゾニア的捕食なのだろうな、とも思いました。
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「あなた」の反応をさぐり、「あなた」の話したことについて「私」が答える。「私」の反応を「あなた」はさぐり、「私」の話したことについて、「あなた」が答える。
私たちはお互い応答し続け、お互いの一部を交換しあってきました。
でもまだお互いの人生をプレゼントしあう、というのは過程です。
今日も一緒に美味しいご飯とお酒を味わおうね!
かようにして、このように今日もメッセージが流されるのでした。