恩師の本棚に珍しくやさしめな本があったので、「読む」ことについて考えていた私は、北海道の書店でなんとなくこの本を手に取った。
高橋源一郎、『「読む」って、どんなこと?』、2020年、NHK出版。
め、めちゃめちゃ「左」やんけ~~~~~!!!!!
と思ったのが、浮かんだ感想である。
もちろん、私は武田泰淳の文章を読んだ時に「まじかー」と思いながら読み、オノ・ヨーコの聴こえない音に耳を澄ませ、リチャード・ブローディガンの空白については、「忘失ってことかな?」などと考え、鶴見俊介の言葉にただただ感動し、国語の教科書からAV女優のインタビューまで紹介するナビゲーター・高橋源一郎の声を読みながら、自分の中で「読む」ことについて考えてみた。
読む、というのは受け取ることだ。
その人の声を、自分がわかろうとすること、受け取ろうとすること、何を言いたいのかを受け取ること。
だから大概の場合、私たちは自分の好きなものを読んで、そうして「私」をつくっていく。あるいは、「課題」として与えられたものを修練のように読んでいく。それらは読むトレーニングのために与えられた本なので読まなければいけないが、でも大概、自分で読むものについては自分で選んで読んでいる。
とすると、「読む」のは選択の連続である。まず「何を」読むか選び、読んで「どう感じるか」とか「何を思ったか」を選ぶ。どう感じるかも、何を思ったかも、自分の中の集積だから、自分の引き出しの範囲で考えたことであって、それすなわち選択である。
クリティカルに読む、ということもできるのかもしれない。
「この人のここの部分については私は懐疑的です。なぜなら○○のように思うからです。」。
しかし自分の「考え」や「感性」と言っても、それらも体験してきたことや記憶したことや、何かを「読んだり」して思ったことの集積であって、私たちはその引き出しから自分の「言葉」というものをさぐりあてる。
そのようにして「読んで」いる。
めちゃめちゃ「左」な文章を読ませられたのは、「どう思う? この通りだと思う? そうじゃないと思う? だとしたらなんでそう思ったの?」ということを著者がひたすら問いたいからなのかな、と思った。
それぞれの文章について思うことをいろんな人に書いてほしくて、こういうものを書いた、という気がする。そういう意味では斉藤孝さんの書いてる「読書」とはまた違った読み方を問うている、と言ってもいいだろう。
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最近、「右」とか「左」とかいう言葉を便宜的に(注:便宜的に)使うようになったのだが、掲載されていた坂口安吾の文章を読んで、特に、「階級って何なんだろう~~~~~」と思った。「人間に階級なんてないだろう~~~~」とも思った。でも私たちはいろんな意見の違いや立場の違いから、違いごとに仲良し度を決めていて、自分の喋る相手を選んできている。でもそこにいるのは「人間」だってこと、常に忘れずにいたいな、と思いました。