はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『民族誌的近代への介入:文化を語る権利は誰にあるのか』

九大の太田好信先生の『民族誌的近代への介入:文化を語る権利は誰にあるのか』を読んだ。南に行く時に飛行機の中で読んで、飛行機の中で読み終えた。空の上で読み終えた本ははじめてである。そういう意味で記念的な読書体験だった。

 

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太田好信、『民族誌的近代への介入:文化を語る権利は誰にあるのか』、2009、人文書院

 

この本は那覇から本を減らすために、荷物の郵送として送ってしまっていて、今は手元にない。

 

ノートに書きつけた感想をもとに書いてみようと思う。

 

ポストコロニアル批判に対して、文化人類学はどのように対応(呼応)していくべきか、というお話だった。文化を人に語らせるということは、文化人類学として、文化を表象という形で切り取ってしまうのではないか。というお話。

 

リゴベルタ・メンチュウについて、友だちが話していたことがそういえばあったなぁと思ったけれど、メンチュウのことをこの本ではじめてちゃんと知った気がする。メンチュウと文化人類学者のブルゴスの関係は、アシア・ジェバールと『墓のない女たち』とどう違ったのか、ということを考えてもいいと思った。文化人類学は、文化の語り手になりうるかということを考えた時、何をしてもポストコロニアルな状況に直面し、なぜ語る人と語らせる人ができてしまうのか、ということは自分もやっぱり考えることになった。

 

ここに行って来て、こういう人と会って、この人たちはこういうことをしていて、こういう文化が残っているんだよ、

 

などと書いたところで、観光客や人類学者が大量に押し寄せてきて、その文化というのは何か? みたいなことはなくなってしまったり、かえって異化を進めることになるのではないか……という。

 

この本を読み終えて、沖縄で一冊本が書けるくらいの経験をしてきた。最終的に琉球大学の図書館に行って、沖縄のことをもっと知ろうと開架図書の本をいくつか読んだのだけど、語りというのは集積されていくんだな、とも思った。

 

誰かが聞き取った語りが本になり、誰かが考えたことが論文になっていく。その跡をまた誰かが辿る。

 

文化を語るという事と政治は結びついてしまう。個人にそれぞれの事情があって、「個人的なことは政治的なこと」と言えてしまう時代になった。

 

ポストコロニアル批判について考え直すのに、サイードの『オリエンタリズム』とスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』も読んでいきたいと思う。

 

自分の文化は自分で語れる、そういうものを目指していくのは生き残りをかけた取り組みである。

文化人類学とは「よく聞いて」「よくものをみる」ことが基本で、もっと言えば人の心の動きまで観察してそれにこたえていく、ということが必要なのだと思った。

 

書くことは権力の伴うことである。でも書き続けたいと思うのはなぜか。

そこにあるものを残したいと思うからではないか。

 

文化人類学者は、「学者」と名付いているけれども、そうではないし、文化人類学者は主体ではない。人と交流したこと、生きた記憶、誰かの思い出――そういうものを紡ぐのも、文化人類学者の一つの仕事なのではないかと思う。

 

まあもちろん、「文化人類学」という学問にするためには、それまでの先輩がどういう仕事をしてきているのかを、ちゃんと整理するということが必要なわけであるけれども。