告別式は14時から始まった。
曹洞宗式の告別式はなかなか派手な読経であり、時折シンバルのようなものを鳴らしたり、木魚を叩いたりしていた。
出棺の前に白い菊や百合の花を入れた。花は母の仕事関係者からもいただいていて、きちんと仕事をしているときちんと親を見送れるんだな、などと思った。喪主は祖父であったが、最後の挨拶は母がした。
斎場に行き、精進落としなどを配る。お茶を飲む。こういう時、食べられるならば食べた方がいい。図々しくみられるかもしれないけれど、お腹は空くし、睡眠はとりたくなるから、きちんと食べたり寝たりすることが大事なのである。
時間が来て、骨を箸で拾った。
骨を見ながら不思議だな、などと思う。全て焼かれて骨だけになってしまう。でも骨を拾って骨壺に入れて、お墓に納めることで、墓は墓として意味のあるものになり、そこに墓があって、墓参りをする限り、子どもが親となり、その子どもが子を産み、ということが続けられていく。こういう儀式は全て人間の生命を続けていくということのためにあるのだということがわかった。
斎場を出て母の運転する車で妹と私との三人で高松へ向かう。
母は愛媛に残って行政の手続きなどを済ませる必要があった。
車の中で四十九日の話などをした。妹はにぎやかだった。「お姉ちゃんは週に何回くらい外食をするの」とか、「自分の子どもは大学まで出させてやりたいと思う?」などと聞くのであった。
私は後部座席でにぎやかにしている妹を見、車の中から景色を眺めていた。
三人でどの電車に乗ればいいか、どこの駅から乗れば東京まで戻れるかをその場で探して、何時何分にどれに乗ったら、ちゃんと帰れるよ、などと話した。
そうして妹を見送り、今度は私が助手席に乗って、母の運転で空港まで送ってもらった。
「降ろしたらすぐ帰るよ」
「まあまあ。空港の中にはカフェぐらいあるでしょ。コーヒーでも飲んで帰りなさいよ」
「そうしたらカフェインは摂るか」
などと話した。
高松空港は土産物屋がいくつかあり、そこでオリーブオイルを買った。うどんはどれがよいのかわからなくて買うのを諦めてしまった。草間彌生のデザインのキーホルダーなどがあり、玉ねぎのドレッシングがあり、日本酒の金陵が並べられていた。
母の予定を聞く。明日には行政の手続きをして、家と墓のことを考えなければいけない、と母は言った。
階段を下りた母に向かって手を振った。
母も振り返った。
北海道に帰ってから、瀬戸内の方とは全然違う、と思った。
曇り空、白樺の木、雨、四角い家々……。
瀬戸内ののんびりとした空気の漂う感じ(しかし沖縄のそれとはまた少し違う)と打ってかわって、北の大地は厳しい自然で動物や植物と共に生きている、という気がした。
愛媛で地震があったという。
あのまちは、もし大地震なぞが起きたらひとたまりもないだろう、と思った。
家に着いて、大学に聴講に行って、パートナーと食事をしてまた二人で家に帰った。
眠る時、彼は「帰ってきてくれてありがとう」と言った。
私はしばらく北海道で生活をする。