はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

『パルプ・フィクション』

1994年のクエンティン・タランティーノの映画、『パルプ・フィクション』を観た。

恋人の評価は「60点」ということだったけど、私はこの映画を割と気に入ったし、観て1日経った今でも、この映画のことを考えてしまった。

 

パルプ・フィクション』にはギャングとボクサーが出る。ボクサーの話はひとまず置いておく。ギャングは二人組で、そのうちの一人はボスの新妻とデートをしに行くのだと張り切っている。もう一人はボスはやりすぎる、という。新妻の足のマッサージをしていた男を4階から突き落として言語障害にするのはやりすぎだと。ボスと取引があったまだ若い男を襲撃する時に、ギャングはエゼキエル書の一節だと言って、長々と暗唱して銃を放つ。終盤でこの暗唱が再び登場し、ギャングは自分の解釈を言う。「正義を実行する者と悪としてその正義を立ち阻む者がいる」という話で、自分は正しい者になりたい、と言う。もう一人はその解釈を真剣には受け止めず、「神の奇跡」については疑問視をする。

 

「悪」というのは存在するものだな、とぼんやり認知した。昔は「悪」と言えば、テレビの中のバイキンマンで、子どもながらに「勧善懲悪」のストーリーというものが絶対にこの世に存在していると思っていた。だけど「悪」は「正義」と反転したり、何が「悪」で何が「正しい」のかがわからなくなったりする。かなしいことや、傷つくことも年を取るたびに増える。一方で喜びも多くなると思うけれども。

 

ちょっと傷ついたとき、私はギャングのジュールスが言った「正しい者になりたい」という言葉を信じることにした。レストランで強盗をしてお金を稼ぐ、というのは「悪」であり、それは実際に罪に問われる「犯罪だから」という理由だけではない。誰かを脅かす、というのは「悪」である。それがたとえどれだけ程度が小さいと本人が思っていたとしても。しかし「悪」の欲求はお金が欲しい、とか何かを征服したい、とかである。つまるところ単なる持てる者への嫉妬なのだ。

 

私は神というものの存在を信じていて、その神は嫉妬による傷つきというものを見逃さない。だから救われるとか救われないという話ではなく、その傷つきを克服する過程を神は期待しているのだと思う。

 

闘うということは、自分の傷つきに気づき、それをごまかさずに真正面から見据えて、克服し、自分や大切な人――あるいは自分と同じ境遇の人――を守ることなのではないかと、この映画を観て思えた。

 

見ようによってはやはりこの映画は三文小説なのかもしれない。けれど私たちの人生だって、奇跡の連続であり、時に失敗があり、気づきがある。

 

でもそういう気づきのようなものを、音楽やスポーツ、愛やTシャツで彩るのが人生なのかもしれないよね――と思った。

 

私はこの映画を結構、気に入ってる。