はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

観てきた:テート美術館 光 ―ターナー、印象派から現代へ

ウィリアム・ターナーが好きだということは、このブログで「MET展」について挙げた時に述べたけれども、今回はターナーの作品が何点か来日するということで、喜んで観に行った。

1枚目の絵にも目を奪われてしまい、「なぜこの絵を観客が最初に見る場所に展示したんだろう?」と思った。ポストカードにもなっていたので買ってしまった。

ジョージ・リッチモンドの『光の創造』(1826年)である。

これが最初にあったことで、なんというか、気を引き締めて絵を見ることになった。

 

ターナーの絵はややもすると「水蒸気や光を表現しているからか、もやもやしていて抽象画みたい~」という印象を持ちがちである。

けれども『光の創造』を見た後に『陽光の中に立つ天使』(1846年)を見ると、線の流れが丸みを帯びて外側から内側に描かれているなあ、とか天使の持つ剣が中心になっているとかがわかる。図録の解説を読むと、前景では殺人と裏切りが描かれているということで、確かにここだけ黒く影になっている。

とはいえ、全体は天使を中心に明るい「光」が描かれているので、より一層視線は天使の「光」に寄せられる。

リッチモンドの『光の創造』もターナーの『陽光の中に立つ天使』も「マタイによる福音書」中の言葉を想起させる。

『暗闇に住む民は大きな光を見/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』

(マタイによる福音書、4章16節)

 

光とは何かを知覚させてくれるために必要なもの、希望、知識、善、などで、それらは神のまとうものであった、という視点を出発点としていることがわかる。

 

男性の観客の目を惹いていたと思うのは、ジョゼフ・ライト・オブ・ダービーの『噴火するヴェスヴィオ山とナポリ湾の島々を臨む眺め』で、この絵は映画のRRRにビジュアルが似ているなと思った。火山と湾。太陽と月。

 

ジョン・ブレッドの『ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡』をゆっくり見られたのはほんとうに眼福と言えた。プリントアウトされてしまうと、海原の風景の高揚感とか、それらを目にした時の感動というものは味わえないのだけど、明るい光線や光の反射具合によって、緑と青が波のように動くのを感じられる。

 

ヴィルヘルム・ハマスホイの『室内、床に映る陽光』は人物も描かれていないし、一見さびしい絵に見えるのだが、陽光のあたたかさが空っぽの部屋でも不思議と安心をさせる。

 

現代美術として面白かったのは、ジェームズ・タレルの『レイマー、ブルー』(1969年)とオラファー・エリアソンの『星くずの素粒子』(2014年)。

デジタル・プリントではジュリアン・オビーの『雨、足跡、サイレン』(2000年)とかがよかった。

 

印象派またはそれ以前では、光というものが、太陽や神といった自然および、あたりまえにあるけど崇高なもの、というモチーフで表現されていたけれど、現代美術では「光」というと単にLight―電球など人工的な光をどのように違和感なく自然なものとして再構築できるか、というようなことに挑戦していた気がする。

 

オラファー・エリアソンについて、昔アルバイトをしていた映画館で、彼に関係する映画のチラシを見かけたような気がするのだが、あらためてその映画(? ないしはドキュメンタリー?)を見たくなった。

 

全体として、難しいキャプションは削ってあり、気軽に美術が楽しめる感じとしてまとまっていた。でもキャプションがなければ、私たちは「感じる」ことしかできないので、美術館という場所も知識を与える場所ではなく、「感覚の揺らぎを体験する場」としての意味合いが強くなるなと思った。

後半の現代美術に合わせてあえてキャプションは少なくしていたのかもしれない。

 

たぶん、もっと言語化できるようになりたいので、もう一・二回は観にいく。