サイードのオリエンタリズムを知ったのは、学部の知っている先生のゼミで『オリエンタリズム』と『知識人の表象』が取り上げられているのを知った時である。確かに、「オリエント」ってどこから見てのオリエントなんだろうな……と思ったし、そこで描かれる文化の簒奪みたいなものを、どのように主体として持っていくか、みたいなことに興味を持った。
その後、小説の『崩れゆく絆』を見て、土着の宗教や文化や秩序が崩れていく背景に、その社会で弱いとされていた人たちを救う強力な「他者」が現れたこととかを思ったりした。
でもどうにも日本に住んでいる日本人(便宜上)が、欧米の思想や文脈を持ってきて、その紹介をすることや、それがあたかも自分たちだけが知っている思想に収斂させている、という構図は見ていて疑問を持ってしまう。そういう「自分たちだけが知っていていい」とか、思想を「借りて」現象を説明することが批判されてきていたのではなかったかとも思うからだ。
結論として、自分の身近に広がっている世界のことを考えてしまうのだった。私の身近にある世界のことを描くことができたら、それは世界に開けていくようなお話ができるのではないかな……というような。
ようするにポルトコロニアリズムと女性の文脈で毎回思うのは、自分たちが特権的であるとか、虐げられているとか、そういうことを話す前に、もっと豊かに広がっている世界というものが誰かに共有できたらいいのにな、ということなのである。