SNSで時折この本の広告を見かけていたので、読むのをとても楽しみにしていた。
『エスノグラフィ入門』。
「エスノグラフィ好き!! 読みたい!! 書きたい!!」などと思いながら読んでいた。本の探索の仕方や時間の過ごし方、参考書籍なども書いてあって読みやすいと思う。高校生や、大学1・2年生で社会学や人類学に興味がある人向けかな、と思って読んだ。
学生の卒論などにも章の最後に書いてあり、コメントなども付記されていて「そういうテーマで卒業論文を書く人もいるんだ~」などと膝を打つことも多く、面白く読んだ。社会的に弱い立場の人の視点に沿って、ミクロな現場を書くことでわかる社会構造もあるんだ、というお話を読んでいて私ははた、と立ち止まってしまった。
エスノグラフィを書くという視点から学問をすることを学んだ学生って、社会でどのように立ち回りをしているのだろう、ということだ。
自分もエスノグラフィ的なものを書いていたはずなので、当時の同期が何をしているか考えた。中国語で貿易事務をしている子がいる。IT企業でSEをしている子がいる。大きめの不動産会社で働いている子がいる。出産を控えて田舎に引っ込む子がいる。
彼女たちは、エスノグラフィというものの見方を(おそらく)身につけているはずだけど、そのようにすることとマジョリティ側で働くことというのは思想として対立しないのかどうか? つまり、社会の中で社会的弱者の立場を守ったり、生活という地点で「うまくやる」工夫をしている人はどのような視点や目でもって、「社会」というものと立ち向かっているのか、という点は気になった。ニュースなどをみていると、権力を振りかざした圧倒的「悪」とでも呼ぶべき立場の人が、本来なら協調して社会のために何か業務をすることを求められているはずなのに、そのニュースは一つの「見世物」になってしまっていたりすることを考えると、社会的弱者の立場について、何か「描写する」ことを学ぶことをどこまでマジョリティ側の社会に適応させながらファイトすることができるのだろう、と思う。
もう一つは生活を書くというその点においては、エスノグラファーでなくても行われてきた営みではないかという点が気になった。
たとえば私の好きな作家で武田百合子という人がいるのだけれど、彼女の書いた文は、どこまでもリアリティのある、生活としての実践者としての書き方だと思ってしまう。「作家の目を持って生まれた」と評されることもある武田百合子だけど、生活を書くということは彼女のように、他者から読んで、読んだことによってすごく自分がポジティブになれるとか、物の見方が変わって生活そのものを眼差すことができる、というようなことを目指すのかどうかという点が気になった。つまり、社会学や人類学として落とし込むときには何か展開するべき論があるはずだけれど、その論というものの見つけ方や学問としての落とし込み方について、もう少しふれられると、「学問」に興味を持ってくれそうな人がもっと増えるんじゃないかと思った。
読みながら私自身がポジティブになれた面としては、私の生活もまた肯定されていると感じることである。
私は洗濯をし、芋を炊き、栗を煮ている間にこの本を読んだ。
無名の主婦という存在は、きっと日本社会においてはたくさんいることだろうと思うけれど、その中にも彼女たちの知恵があるはずだし、彼女たちから学ぶことがきっといっぱいあるはずだということを思った。専業主婦という人たちがマジョリティだとかマイノリティだとかいう論争がSNSでたびたび起きているけれど、その人たちから見えている世界がどんなものなのかというのは、実はそんなに研究されていないし、「知っていること」とされてしまっているのではないか、危惧してしまう。
だから、私のような、生活を生活として回すことをしている人間であっても、その私からしか見えないことがきっと多くあるはずだという視座はとても心強いものになった。
参考文献にあがっていたもので、『方法としてのフィールドノートーー現地取材から物語作成まで』はなるべく早く読んでみたいと思った。