「なんかヴァナキュラーって言葉、流行っているっぽいな~」と思って何気なくTwitterで検索をかけたら、平凡社新書の本がヒットした。
タイトルは知っていたけれど、ここまで「ヴァナキュラー」を膾炙させるのがすごい……と思い、また民俗学も嫌いではない(学部の時は民俗学寄りの研究にしようか迷っていた)ということもあり、読んでみた。
「そこまでヴァナキュラーってことにしたらなんでもヴァナキュラーになってしまうのではないか」という批判はともかく、テレビ番組を見ているように街角の人の話やファミリーヒストリーが書いてあり、とても面白く読んだ。
個人的には第7章が興味深くて、パワースポットやパワーストーンについての考え方とスピリチュアリティの結びつき方に興味を持った。関連文献も読んでいきたいと思う。
スピリチュアルを信じている人の話というのは、普段の会話では決して出ないけれど、よくよく身につけているものをみるとパワーストーンだったり、「お弁当のグラタン占いが大吉だとうれしい」というような些細なものまで、何かに味方されているという感覚は実はそれぞれ個人の中に抱いているのではないかと思った。
いろんな語りが本書に書かれているけれども、ある「語り」や今の時代の「風習」について、やはり残されていないというのは、俗の知恵が継承されないということにもならないだろうか、と思った。
ヴァナキュラーの反対ってなんだろう、と思った時に、それは近世の日本の法観念を表す「非理法権天」ではないかと思った。この「非理法権天」は結局、大きな権力を肯定するための法や道理のような気がして好きになれなかったが、「俗」の知恵にももっと焦点をあてて考えることも必要ではないかな~などと、私は思ってしまう。
最近、身近なところでいうと、携帯があるために、「今その人がそこにいるかどうか」、常に存在を明らかにすることが多くなったな、と思った。携帯を持たなかった時代、(そういう時代はほんとうにある)、「誰それさんはいる?」「今いたんだけどな、どっかいっちゃったな」という、ひょっと、「一人になる」とか「用事をする」、そういうことが許容される、みたいなこと、少なくなった気がする。
誰かがどこかに出かけても、まあそういうものだろう、そのうち戻ってくるだろう、として気にしなくなることが少なくなった、というか、もはやなくなってしまったような気がしている。
そういう私が子ども時代に持っていた「感覚」は、何か語られない限り継承されていかないのではないか……とも思うし、コロナの時の「アマビエ」みたいに、江戸時代にあったものが形を変えて再生されたりすることもあるのかな、と思う。
ところで私は持っていなかったのだが、アマビエグッズって持っていた人は、今、アマビエのことを時々思い出したりしているんだろうか。