はちみつのdiary

hannyhi8n1から引っ越しました。

読んだ:『正欲』

読み終わった後に「うわ~、読み終わってしまった~」などと思った。

 

結構明確にストーリーのテンションの上昇がわかったので、「おっかしいな~」とか思っていたから衝撃はまあ、まだ浅い方だったと言える。

 

読み終わってすごくもやもやした。

というのも、最終的に「つながり」を求めていた人たちが、「つながり」から分断されていくという終わり方に個人的にはすごく気分が落ち込んだ。

「正しい」とか「普通」とか「日常」に対して「誰かから決められることではない」というメッセージを強く出すための終わり方だったのかな? とか、「ここで気分が落ち込んだとかいう人に対してのあえての落としどころだったのかな」とか「ここで描きたかったのは絶対悪みたいなものだったのかな」とか、思うことはいろいろあるけれど、正直終わり方は「嫌だなあ」って思いました。

「嫌だな」って思う小説は、たとえばモーパッサンの『脂肪の塊』とかも「嫌だな」という終わり方なのですが、やっぱり私はこういう「正しさ」とか「フェチ」とか言う話になると勧善懲悪であってほしいと思ってしまうのですな。

 

こういう小説を読むと、角田光代さんの言葉を思い出します。

正確な言葉は忘れてしまったのですが、新潮社の夏休みの中高生向けの感想文の話で、

「嫌だな、とかもやもやした、という読後感も大切にしてほしい」というような趣旨のことです。

 

「性」をどう捉えるかとか、自分の領域と他者の領域について踏み込んでほしくないところはあるよね、とか、まとまりのよい形で終わらせるのではない、そんなものに規定されたくはない、という気持ちは主張としては理解しました。

なんですけど、私は、どうしても「性」というものは楽しいものであってほしい、と思ってしまうのです。

確かに女性として生きていて、生き辛さはもちろんあるんですけど、それ以上に、女性としてのハッピーさというのはあると思っているんですよね。同様に、男性として生きていて、男性としての辛さももちろんあるし、ハッピーさもあると思うんです。

で、ダイバーシティということに枠を広げるとき、それは単にマイノリティの辛さを隠すとか抑圧するという話ではなくて、やっぱり自分の性についてもハッピーだと言いたいための運動だと思っています。

ただ、「性」と「フェチ」は別の文脈で語られる必要があるとは思っていて、もしこの小説が「フェチ」についての話だとしたら、新しい小説ということになると思うし、「普通」についての挑戦だとしたら、どれだけ朝井リョウは「普通」を嫌っているのかな~ということが気になる小説だなと思いました。

 

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』とかに若干似ている気がするんですけど、なんで似ていると思ったのだろう……?

 

朝井リョウとはかなり反対にいる作家が武田百合子とかなのかなぁ? とかも思いました。私は武田百合子のことがめちゃめちゃ好きなので、そういう立場というか、流派としても「面白かった」と言い切るのには難しいのかなぁ、なんて気もしています。

 

マジョリティとマイノリティの話にも触れると、最近、「私はどうやらマイノリティらしいぞ?」ということに気が付いたのですが、あんまり共感するエピソードがなかったかな? とかも思いました。個人的には、ショッピングモールで「ずっと私のこと見下していたのよね」とか言ってくる人が嫌いだなと思いましたし、「知らんがな!!」と登場人物の代わりに言ってやりたくなりました。あそこで何も言わなかった登場人物の心境が謎です……。諦念だったのだろうか。いや、諦めなくてもいいと思うけど。

 

あとは、アートと性は全く別のジャンルなのか? ということも気になりました。

アートということは欲望の対象足りえるし、性というものは創造的なものであるとも思うので、そこに希望があってよかったと思います。