夏目漱石の『門』を読みました。
大学生の頃に『三四郎』を読み、書き出しと終わり意外忘れちゃったけど『それから』を読み、無事三部作最後の『門』を読み終えることができました~!
『それから』に比べると『門』は……とか言われがちなようですが、私は『それから』より『門』の方が好きです!
読むきっかけは「明治時代の夫婦について書いてある本が読みたいな……」というものだったのですが、『門』は夫婦の会話が多くある本だったので、ちょうどよかったです。
解説の柄谷行人が全て持って行ってしまってるので、批評みたいなことはしにくいのですが、感想を書きます。
まず夫婦の日常を書いているのがいいです。
つつましく生活している宗助と御米ですが、御米はもとは人妻であり……というのはもはや作中でも読者にも知られているところ。
しかし、作中では二人の過去については旅行に行ったこと、安井という友人の妻であったこと以外にはあまり触れられておらず、というかもはやひた隠しにされており、「過去に人には言えないできごとがあった」という雰囲気だけです。それくらい宗助と御米は激しく惹かれあったのだという妄想が膨らみます。
そんな夫婦が世間をしのんで崖の近くの借家に住み、屏風の話をしたりするのは、なんというか「夫婦の日常とはこんな風に小さな事柄からつくられていくのだ」という感じがしてよかったです。
河合
仏門に行くんだけど、帰ってくるでしょう。夫婦のことは、漱石が書いているようにふつうの意味の仏門なんか通ったって、わからないんですよ、やっぱり「井戸掘り」しなくてはいかんのですね。
(p.100『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』、河合隼雄・村上春樹、1999年、新潮社。)
こうやって書き起こしてみると、宗助と御米はやはり「夫婦」になりきれていないんじゃないか、という気もしなくもないのですが、それでも淡々と生活をして、冬を乗り越えて春になるまでに、一人自分のことを考えて仏門をくぐる宗助を見ると、「漱石自身、自身のありかたにすごく悩んだんだろうな」という感じがして、「自分のあり方や友情や夫婦ということについて悩んでいるのは一人じゃないんだな」と勇気づけられる思いです。
ラストの文章は、
「本当に有難いわね。漸くの事春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。
宗助は縁に出て長く延びた爪を切りながら、
「うん、然し又じきに冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。
というものであり、これを夫婦の断絶と読むかどうかですが、私は一人の人間が二人寄り添って一緒に生活していくことで、(過去の影におびえながらも)日常生活の中に幸福を感じることができるのではないかと期待が持てるのです。
それは下を向いたまま鋏を動かすようなものであっても、きっと悲しいものではないはず、とも思います。
そう思うのは私がまだ若いからでしょうか。
尊敬する元上司は私に向かって「結婚は幻想だぞ」と言いましたが、それは男性の方が幾分ロマンスというものを高尚なものにしがちだからではないかと思います。
こうは言っている私もロマンスを夢見る年頃なのですが…!
ですが私は宗助のような人間は好きにならないようにしたいものです。